
結婚式でおなじみの《結婚行進曲》。華やかな金管楽器の響きが印象的なこの曲を書いたのが、フェリックス・メンデルスゾーンです。
もとはシェイクスピアの喜劇《夏の夜の夢》のための音楽でした。同じ題材による序曲を彼が書いたのは17歳。その17年後、34歳で劇の上演に必要な音楽を書き加え、その中から《結婚行進曲》が生まれました。1
早くから才能を開花させ、豊かな家庭に支えられたメンデルスゾーン。その人生では、作曲と並んで、指揮や教育にも大きな力が注がれました。
バッハの大作を演奏会によみがえらせ、オーケストラを率い、若い音楽家が学ぶ学校をつくる。メンデルスゾーンは、与えられた才能と環境を、どのような音楽の仕事へ広げていったのでしょうか。
音楽と映像で、作品の魅力をさらに深く。YouTube「クラシック音楽の事件簿」でもご紹介しています。
1分でわかるメンデルスゾーンの生涯
メンデルスゾーンは1809年、ハンブルクの裕福な家庭に生まれ、ベルリンで育ちました。姉ファニーとともに音楽や文学を学び、16歳で《弦楽八重奏曲》、17歳で《夏の夜の夢》序曲を作曲。20歳でバッハの《マタイ受難曲》を指揮し、再評価の大きなきっかけをつくります。
各地への旅からは《フィンガルの洞窟》や交響曲の着想を得ます。26歳でライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団を率いるようになり、のちに音楽院の創設にも尽力。家庭では5人の子どもの父となり、《ヴァイオリン協奏曲》《エリア》などを完成させます。
1847年に姉を失い、自身も同年、38歳で亡くなりました。2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9
まず聴くなら《ヴァイオリン協奏曲》

メンデルスゾーンの音楽に初めて触れるなら、《ヴァイオリン協奏曲 ホ短調》の冒頭がおすすめです。
オーケストラが長く前置きをするのを待たず、独奏ヴァイオリンがすぐに歌い始めます。少し切なく、すっと上へ伸びていく旋律。その歌が細かな音の動きへ姿を変え、やがてオーケストラへ受け渡される流れに耳を向けてみてください。
旋律の親しみやすさと、次の場面へ進んでいく勢いを一緒に楽しめる一曲です。7
基本情報と、生涯の主な転機
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ |
| 生没年 | 1809年2月3日〜1847年11月4日 |
| 出身地 | ハンブルク |
| 主な活動地 | ベルリン、デュッセルドルフ、ライプツィヒ、ロンドンなど |
| 音楽史の位置づけ | ロマン派前期。作曲、ピアノ演奏、指揮、教育で活躍 |
| 主な作品 | 《夏の夜の夢》《無言歌集》《イタリア》《スコットランド》《ヴァイオリン協奏曲》《エリア》 |


※主要な経歴は、メンデルスゾーン・ハウス、楽団・音楽院の歴史資料などに基づきます。21416
1.音楽を試せる家で育った、姉と弟
書いた曲を、実際に演奏してもらえる環境
1809年2月3日、メンデルスゾーンはハンブルクに生まれました。父アブラハムは銀行家で、祖父モーゼスはユダヤ系の哲学者です。一家は1811年にベルリンへ移り、そこで子どもたちの教育に力を注ぎます。フェリックスは1816年、7歳のときに兄弟姉妹とともにキリスト教の洗礼を受けました。2
幼いフェリックスが身につけたのは、ピアノやヴァイオリン、作曲だけではありません。文学や語学、美術なども学び、絵画にも才能を示しました。のちの旅では、手紙とともに風景のスケッチや水彩画を残しています。23
彼にとって大きかったのは、自宅で作品を実際の音にできたことです。家族が開く日曜の演奏会には、父が雇った演奏家も参加しました。若い作曲家は、楽器を重ねたときの響きや旋律の聞こえ方を、自分の耳で確かめる機会に恵まれていました。
作曲の師カール・フリードリヒ・ツェルターは、ベルリンの合唱団ジングアカデミーを率いていました。そこで学んだバッハの音楽は、異なる旋律をいくつも重ね、まとまりのある音楽へ組み立てる技術の土台になります。3
姉ファニーは、身近な音楽の相談相手でした
4歳年上の姉ファニーも、優れたピアニストであり作曲家でした。二人は同じように高度な音楽教育を受け、作品について意見を交わします。
家庭が二人に期待した将来には差がありました。父はフェリックスが音楽家になる道を認める一方、ファニーには家庭を中心とした生活を求めます。弟が各地で活動するようになってからも、姉はベルリンの日曜演奏会を発展させ、作曲、演奏、指揮を続けました。離れて暮らす二人にとって、作品への感想を交わすことは大切なつながりでした。4
12歳で出会ったゲーテ
1821年、ツェルターは12歳のフェリックスをワイマールへ連れていき、72歳の詩人ゲーテに紹介しました。ゲーテは少年のピアノ演奏を気に入り、その後も交流が続きます。
メンデルスゾーンはのちにゲーテの詩による歌曲や《最初のワルプルギスの夜》を作曲しました。2

2.16歳の傑作と、20歳で向き合ったバッハ
《弦楽八重奏曲》と《夏の夜の夢》
1825年、16歳のメンデルスゾーンが完成させたのが《弦楽八重奏曲》です。ヴァイオリン4本、ヴィオラ2本、チェロ2本という編成で、八つのパートを自在に動かしています。
冒頭では第1ヴァイオリンが大きく駆け上がり、その下でほかの楽器が音楽を押し進めます。小さなオーケストラのように力強く響く場面と、それぞれの楽器が会話するように旋律を交わす場面が、一曲の中で移り変わります。5
翌1826年には、《夏の夜の夢》序曲を書きました。シェイクスピアの喜劇に登場する妖精、恋人たち、職人たちの世界を、オーケストラの音で描いた音楽です。
ゆっくりした管楽器の和音に続き、弦楽器が小さな音で素早く動き始めます。その軽さが、目には見えないものが飛び交うような印象を生みます。文学から受け取った想像を、楽器の響きへ移し替える力が、17歳ですでにはっきり表れていました。16
オペラでのつまずきと、《マタイ受難曲》の成功
若いころの作品が、すべて順調に受け入れられたわけではありません。1827年、ベルリンで上演されたオペラ《カマチョの結婚》は、大きな成功を得られませんでした。
メンデルスゾーンは後年もオペラの構想を持ちましたが、このジャンルで代表作を確立するには至りません。2021
1829年3月11日、ベルリンで20歳のメンデルスゾーンが指揮したのは、バッハの《マタイ受難曲》でした。
イエス・キリストの受難を、独唱、合唱、オーケストラによって描く大作です。メンデルスゾーンは当時の聴衆に届けるため、曲の一部を省き、演奏に手を加えた形で上演しました。この公演は大きな反響を呼び、バッハの大規模な声楽作品へ関心が広がる重要なきっかけになります。8
バッハの作品は、それ以前から演奏家や愛好家の間で受け継がれていました。この公演も、家族や師、合唱団による長年の研究と演奏の蓄積の上に実現したものです。810
3.旅先の風景が、時間をかけて音楽になる
イギリスで開かれた活動の場
《マタイ受難曲》の公演と同じ1829年、メンデルスゾーンは初めてイギリスへ渡りました。ロンドンでは指揮者、ピアニストとして成功を収め、その後も繰り返し訪れます。
その最初の訪英中、彼は友人とスコットランドへ足を延ばしました。11

《フィンガルの洞窟》と《スコットランド》
ヘブリディーズ諸島への旅では、のちに序曲《フィンガルの洞窟》として知られる音楽の着想を得ます。旅先からの手紙には、作品の冒頭につながる楽譜も書き込まれました。
曲は、低い楽器が波のようにうねる動きから始まります。同じ音型が繰り返されながら、楽器の組み合わせや音量が変わり、静かな揺れが大きな力へ育っていく。その変化を追うと、風景の説明を読まなくても、音楽の奥行きを感じられます。11
エディンバラでは、ホリールード宮殿の廃墟となった礼拝堂を訪れ、《スコットランド》交響曲の冒頭の着想を得ました。暗く落ち着いた旋律で始まるこの作品は、旅の後も作曲が続き、途中の中断を経て1842年に完成します。着想から完成まで、約13年をかけた交響曲です。12
明るい《イタリア》にも、推敲の時間がありました
1830年からのイタリア旅行では、都市の暮らし、美術、建築、宗教行事などに触れました。その経験につながる交響曲が《イタリア》です。
第1楽章は、弾む伴奏に明るい弦楽器の旋律が重なって始まります。終楽章では勢いのある舞曲へ進みますが、最後まで明るい長調で押し切る曲ではありません。短調の緊張を保ったまま終わるところにも、耳を留めてみてください。
1833年のロンドン初演は成功しました。それでも作曲者は出来栄えに満足しきれず、改訂を重ね、生前には出版していません。13
4.ライプツィヒで、音楽を届ける仕組みを育てる
デュッセルドルフで、街の音楽を担う
1833年、メンデルスゾーンは亡き師ツェルターの後任として、ベルリンのジングアカデミーの指揮者に応募しますが、選ばれませんでした。同年、デュッセルドルフの音楽監督に就任します。2
ここでは演奏会に加え、教会や劇場の音楽にも関わりました。古い宗教音楽の楽譜を求めて各地の教会資料を調べ、ヘンデルなどの作品を演奏しています。劇場では運営上の難しさにも直面し、自分の作曲と、街が求める仕事を両立させる必要がありました。21
ゲヴァントハウスで、演奏会を率いる
1835年、26歳のメンデルスゾーンはライプツィヒへ移り、ゲヴァントハウスの楽長に就任しました。14

彼は声楽曲と器楽曲の両方で、自らリハーサルと本番を指揮する方針を取りました。器楽曲を取りまとめていたコンサートマスターと、主に声楽曲を担当していた楽長の役割分担を変え、演奏会全体を一人の指揮者が率いる体制を強めていきます。2
翌1836年には、デュッセルドルフ時代から作曲を進めていた《聖パウロ》を、同地の音楽祭で初演しました。使徒パウロの物語を、独唱、合唱、オーケストラで描くオラトリオです。通常は舞台演技や装置を用いず、音楽によって物語を伝えます。21
セシルとの結婚、5人の子どもたち
1837年には、牧師の娘セシル・ジャンルノーと結婚します。二人の間には5人の子どもが生まれました。

セシルは夫とイギリスへ行くために英語を学びましたが、妊娠や育児のため、旅を見送ることもありました。1842年には一緒にイギリスとスイスを訪れています。夫が各地の音楽祭へ出かける間、セシルは家庭を支えました。保養地バート・ゾーデンでは、家族で過ごす時間も持っています。15
古い作品も、同時代の新作も
ゲヴァントハウスでは、古い音楽を紹介する「歴史的演奏会」を企画し、聴衆が時代ごとの音楽に親しむ機会をつくりました。同時代の作曲家も取り上げ、1839年にはシューベルトの交響曲《ザ・グレート》、1841年にはシューマンの交響曲第1番《春》の初演を指揮します。214
ベルリンでの仕事と、ライプツィヒ音楽院
1841年からは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の招きによるベルリンでの仕事が加わりました。芸術教育や教会音楽に関わる計画は、宮廷の方針との調整が難しく、思うようには進みませんでした。3
王の求めによる1843年の《夏の夜の夢》では、少年時代の序曲を生かし、《夜想曲》などを加えて劇全体を音楽で支えました。1
同じ1843年、彼が創設を進めていたライプツィヒ音楽院が開校しました。メンデルスゾーンは創設の中心となり、シューマンや、ゲヴァントハウスでヴァイオリン奏者たちの中心を務めるコンサートマスター、フェルディナント・ダヴィッドらが教師に加わります。
オーケストラで活躍する演奏家が、若い学生の指導も担います。この音楽院には、ヨーロッパ各地や、やがてアメリカからも学生が集まりました。のちにノルウェーの作曲家グリーグも、この音楽院で学んでいます。16
メンデルスゾーンはベルリンの職務から退き、1845年には家族とライプツィヒへ戻りました。2

5.友人と練った協奏曲、イギリスへ届けた《エリア》
《ヴァイオリン協奏曲》は、演奏家との共同作業から
《ヴァイオリン協奏曲 ホ短調》の構想は、1838年にダヴィッドへ宛てた手紙に現れます。完成までには年月がかかり、その間、メンデルスゾーンは演奏上の助言を友人に求めました。
独奏者が技巧を披露する「カデンツァ」についても、弾きやすさだけでなく、曲の中の置き場所を相談しています。この曲では、第1楽章の終わり近くに置かれることが多かったカデンツァを、主な旋律が戻ってくる直前へ移しています。独奏の見せ場から、そのまま次の音楽へつながる構成です。
三つの楽章も切れ目なくつながります。独奏者の華やかな技巧を聴かせながら、一曲全体の流れを保つ工夫が重ねられていました。
1845年3月13日の初演ではダヴィッドが独奏し、体調を崩していたメンデルスゾーンに代わって、作曲家ニルス・ゲーゼが指揮しました。7
イギリスとの長い交流が結んだ実り
1846年8月26日、イギリスのバーミンガム音楽祭で、メンデルスゾーン自身の指揮により《エリア》が初演されました。217
旧約聖書の預言者エリアを題材とするオラトリオで、初演は英語で行われました。長く交流を重ねてきたイギリスの音楽家と聴衆へ、自分の大作を届ける機会になったのです。22
生涯の訪英は10回に及び、ヴィクトリア女王夫妻にも迎えられました。2
6.姉の出版、突然の別れ、最後の作品
ファニーが自分の名で作品集を出す

フェリックスが海外でも活躍する間、ファニーはベルリンで作曲を続けていました。彼女の初期の歌曲の一部は、弟の名で出版されています。
フェリックスは姉の才能を認めながらも、職業的な出版活動には当初慎重でした。曲を書くことに加え、継続して作品を世に出し、批評を受ける生活へ踏み出すことを懸念していたのです。
1846年、ファニーは自分の名で歌曲やピアノ曲の作品集を出版し始めます。弟もそれを祝福しました。4
1847年、二人の音楽家を失う
1847年春、メンデルスゾーンは最後のイギリス訪問で、改訂した《エリア》をロンドンで指揮しました。24
同年5月14日、姉ファニーがベルリンで急死します。日曜演奏会の練習中に具合が悪くなり、その日のうちに亡くなりました。41歳でした。4
幼いころから一緒に学び、離れて暮らすようになっても音楽の相談相手だった姉の死は、メンデルスゾーンに深い打撃を与えます。
彼はその夏、スイスで過ごしました。散策や絵を描くこととともに、少しずつ作曲へ戻り、9月までに《弦楽四重奏曲 ヘ短調 Op.80》を完成させます。
この曲では、弦楽器の震えるような動きが緊張を生み、強い響きが重なっていきます。明るい旋律や妖精の軽やかさで知られる彼の音楽に、こんな激しさもあったのかと感じられる作品です。18
その秋、メンデルスゾーン自身も発作に倒れ、11月4日にライプツィヒで亡くなりました。38歳でした。葬儀はライプツィヒで行われ、ベルリンに埋葬されました。2
彼は姉の死以前から体調を崩すことがあり、ファニーを失った悲しみだけを直接の死因とすることはできません。晩年の記録には、深く落胆しながらも再び作曲に取り組み、作品を完成させた姿が残っています。71823
死後の評価をゆがめたもの
死後の評価には、音楽そのものへの批評に加え、出自への偏見が入り込みました。
1850年、ワーグナーは匿名で発表した『音楽におけるユダヤ性』で、ユダヤ系の音楽家を攻撃しました。幼いころにキリスト教の洗礼を受けたメンデルスゾーンも、出自を理由とする攻撃の対象になっています。
さらにナチス時代には、その音楽が公的な音楽生活から排除され、1936年にはライプツィヒのメンデルスゾーン記念像も撤去されました。作品への評価には、こうした反ユダヤ主義による歪みも重なっています。2
生涯を知ってから聴きたい5曲
《夏の夜の夢》序曲 Op.21――17歳の想像力

軽やかな弦楽器の音楽に続いて、堂々とした響きや、滑稽な身ぶりを思わせる音型が現れます。場面ごとに音楽の「歩き方」がどう変わるかを追ってみてください。劇の詳しい筋を知らなくても、性格の異なる登場人物が行き交う楽しさを味わえます。6
《無言歌集》――ピアノで歌う、身近な音楽
「無言歌」とは、言葉のない歌という意味です。歌手がいなくても、ピアノの旋律と伴奏が、歌のような親密な音楽をつくります。
最初は好きな一曲からでかまいません。旋律を追い、その下で伴奏がどのように流れているかへ耳を移すと、短い曲の中の豊かな表情が見えてきます。具体的な物語を決めず、自分にどう響くかを楽しめます。919
交響曲第4番《イタリア》――明るさの奥にある陰影
第1楽章の勢いを楽しんだら、第2楽章にも耳を向けてみてください。低い音が一定の足取りで進む上を、少し陰りのある旋律が歌います。外へ飛び出すような冒頭から、歩きながら何かを見つめるような音楽へ、表情が変わります。13
交響曲第3番《スコットランド》――静けさから広がる世界

重く落ち着いた序奏から始まり、速い音楽へ移ると、同じオーケストラの響きが大きく変わります。第2楽章ではクラリネットの軽やかな旋律が聴きどころ。暗い風景だけで終わらない、作品の表情の幅を楽しめます。12
弦楽四重奏曲第6番 Op.80――最後の年の激しさ
ヴァイオリン2本、ヴィオラ、チェロの4人で奏でる曲です。第1楽章の激しさを聴いた後は、ゆっくりした第3楽章へ進んでみてください。長く引き伸ばされた旋律や、楽器同士が重なる響きが、違った形で深い表情をつくります。18
もう一度聴くなら
メンデルスゾーンは、自分の作品を書くことと、演奏家を集め、音楽を聴衆へ届けることを並行して続けました。少年時代に家庭で経験した「書いた曲が実際に鳴る」という営みは、やがて街の演奏会や音楽教育へも広がっていきます。
次に聴くなら、《ヴァイオリン協奏曲》か《無言歌集》を選んでみてください。大きな演奏会場に響く独奏と、ピアノ一台の親密な歌。規模の違う二つの音楽から、旋律を生き生きと歌わせる彼の持ち味を楽しめます。
楽譜を見たい方へ
IMSLPには、《ヴァイオリン協奏曲 Op.64》、《無言歌集 Op.19b》など多くの楽譜が掲載されています。版ごとの利用条件と、お住まいの地域での著作権表示をご確認ください。
参考資料
[12] ロサンゼルス・フィル:交響曲《スコットランド》解説
[14] ゲヴァントハウス管弦楽団:楽団の歴史
[15] メンデルスゾーン・ハウス:家庭生活
[16] ライプツィヒ音楽演劇大学:学校の歴史
[17] バーミンガム市:音楽祭と《エリア》初演
[18] ロサンゼルス・フィル:弦楽四重奏曲第6番 Op.80解説
[20] ドイツ人名辞典:メンデルスゾーンの伝記(オペラ上演について参照)
[21] ラインラント地域連合・歴史ポータル:デュッセルドルフ時代
[24] 大英図書館:《エリア》の改訂・1847年ロンドン公演に関する書簡
※YouTubeへのリンクは作品名による検索です。


