チャイコフスキーの生涯|官吏から作曲家へ、名曲を生んだ53年の歩み

ピアノと譜面台が並ぶ19世紀末の演奏会場を描いた創作イメージ
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チャイコフスキーは、どんな人生を歩んだのか

《白鳥の湖》《くるみ割り人形》、そして交響曲第6番《悲愴》。チャイコフスキーの音楽には、思わず口ずさみたくなる旋律も、華やかな踊りも、胸を締めつけるような響きもあります。

これほど広く親しまれる作品を書いた人が、初めから音楽家への道を歩んでいたわけではありません。若いころの職場は、ロシアの司法省でした。専門的な音楽教育を受け始めたのは20代に入ってからです。

安定した仕事を離れた青年は、どのようにして世界の舞台へ進んだのでしょうか。教師や演奏家、家族、そして手紙で結ばれた支援者との関わりをたどると、名曲が生まれた背景が見えてきます。

1分でわかるチャイコフスキーの生涯

チャイコフスキーは1840年、ロシア帝国のヴォトキンスクに生まれました。法律学校を卒業して司法省に勤めますが、20代で音楽を専門に学び、モスクワ音楽院で教えるようになります。《ロメオとジュリエット》やピアノ協奏曲第1番で活動を広げたのち、1877年には結婚生活が短期間で破綻。同じころ始まったメック夫人の支援により、作曲に専念する生活へ移りました。その後は《エフゲニー・オネーギン》、交響曲第5番、《眠れる森の美女》などを発表し、自作の指揮者として海外でも活躍します。1893年、交響曲第6番《悲愴》を初演した9日後、53歳で亡くなりました。1・2

1893年に撮影されたチャイコフスキーの上半身の肖像
チャイコフスキー。1893年3月、ハルキウ(当時ハリコフ)で撮影。 作者:Alfred Fedecki/Public domain/Wikimedia Commons

まず聴くなら《白鳥の湖》の「情景」

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チャイコフスキーを初めて聴くなら、バレエ《白鳥の湖》第2幕の「情景」がおすすめです。

弦楽器が細かく震えるように響くなか、オーボエが白鳥を象徴する旋律を奏でます。やがてほかの楽器も加わり、音楽は大きく広がっていきます。聴く目印は、旋律が繰り返されるたびに変わる響きの厚みです。

ひとつの歌を楽器から楽器へ渡しながら、場面の空気や感情の強さを変えていく。この手法は、チャイコフスキーの交響曲や協奏曲にも通じています。3

チャイコフスキーの主な歩み

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、19世紀後半のロマン派を代表するロシアの作曲家です。交響曲、協奏曲、バレエ、オペラ、室内楽、歌曲、ピアノ曲と、幅広い分野で作品を残しました。

生年月日は1840年5月7日、没年月日は1893年11月6日です。当時のロシアでは現在と異なる暦が使われていたため、資料によって日付が違って見える場合があります。この記事では、新暦にそろえて記します。1・2

年主な出来事
1840年ヴォトキンスクに生まれます。
1859年法律学校を卒業し、司法省で働き始めます。
1862年サンクトペテルブルク音楽院で本格的に学び始めます。
1866年モスクワへ移り、音楽を教えながら作曲に取り組みます。
1875年ピアノ協奏曲第1番がボストンで初演されます。
1877〜1878年結婚と別居、メック夫人の支援、教職からの離脱を経て、生活が大きく変わります。
1890〜1892年《眠れる森の美女》《くるみ割り人形》が初演され、1891年にはアメリカを訪問します。
1893年交響曲第6番《悲愴》を初演し、同年に亡くなります。[1・2・4〜6]
1840年の誕生から1893年の死去まで、8つの出来事を縦に並べた年表
主な出来事の年表。各時期の詳しい経緯は本文で紹介します。
法律と官吏の時代、モスクワの教職時代、作曲中心の時代、国際的な演奏活動の時代を活動地と仕事で整理した図
活動地・仕事・代表作から見る四つの時期。年表と合わせると、生活の変化を追いやすくなります。

法律を学んだ少年が、音楽家を選ぶまで

音楽のある家庭と、母との別れ

チャイコフスキーが生まれたヴォトキンスクは、ウラル地方の工業の町でした。父は製鉄所の管理を担う鉱山技師です。家庭には音楽を楽しむ環境があり、幼いピョートルもピアノを習いました。1

両親ときょうだいに囲まれ、左端に立つ幼いチャイコフスキー
1848年の一家の写真。チャイコフスキーは左端。 作者:撮影者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

ただし、両親が息子の進路として選んだのは法律の道でした。10歳で家族と離れてサンクトペテルブルクの法律学校の予備課程に入り、官吏になるための教育を受けます。

14歳のとき、母がコレラで亡くなりました。母との別れは、少年に深い悲しみを残しました。法律学校で学び続ける間も、合唱に参加し、劇場や演奏会へ足を運ぶなど、音楽との関わりは続いています。1・2

20代からの専門教育

1859年、法律学校を卒業したチャイコフスキーは司法省に勤め始めます。音楽への関心は続いていましたが、この時点では職業作曲家ではありません。

転機は1861年、ロシア音楽協会の音楽理論の授業を受け始めたことでした。翌年にサンクトペテルブルク音楽院が開校すると、初期の学生として入学します。作曲や管弦楽法を指導したのは、ピアニストとしても名高いアントン・ルビンシテインでした。

イリヤ・レーピンが描いたアントン・ルビンシテインの肖像
作曲を学んだ師アントン・ルビンシテイン。レーピン、1887年。 作者:Ilya Repin/Public domain/Wikimedia Commons

音楽院では、思いついた旋律を書くだけでは済みません。和声、複数の旋律を組み合わせる技術、楽器ごとの性質を学び、課題をこなしていきます。1863年には司法省の仕事を休み、音楽の勉強へ専念するようになりました。生活を支えるため、個人レッスンの仕事も引き受けています。正式な退職は、モスクワへ移ったあとの1867年です。1・7

モスクワで育った作曲家――仲間と批評のなかで

教える仕事が、音楽の世界を広げる

1866年、チャイコフスキーはモスクワへ移りました。迎えたのは、アントンの弟で、モスクワ音楽院の設立を進めていたニコライ・ルビンシテインです。

ニコライは教職と住まいを用意し、音楽家や出版関係者とのつながりも作ってくれました。チャイコフスキーは和声などを教えながら交響曲やオペラを書き、作品を実際の演奏へ送り出していきます。1・7

1872年に撮影されたニコライ・ルビンシテインの肖像
モスクワでの活動を支えたニコライ・ルビンシテイン。1872年。 作者:F. Luckardt(Fileページ表記)/Public domain/Wikimedia Commons

音楽院で西欧の作曲技法を学んだ彼は、ロシアらしい音楽を重視する作曲家たちとも交流しました。その一人が、「ロシア五人組」の中心人物バラキレフです。

幻想序曲《ロメオとジュリエット》の題材を提案したのは、このバラキレフでした。音楽の構成にも助言を受け、チャイコフスキーは改訂を重ねていきます。現在よく演奏される形に至ったのは1880年のことです。8

この曲では、祈りを思わせる静かな音楽、両家の争いを表す激しい響き、恋人たちの愛の旋律が組み合わされます。物語を一場面ずつ再現するより、異なる音楽をぶつけることで悲劇を感じさせる作品です。

ピアノ協奏曲第1番をめぐる厳しい評価

今日では代表作となったピアノ協奏曲第1番も、完成当初から周囲の賛同を得たわけではありません。

チャイコフスキーが後年の手紙で伝えたところでは、ニコライ・ルビンシテインに曲を聴かせた際、演奏の難しさや作品の内容について厳しく批判されました。4・9

作品を支持したのは、ドイツの名ピアニスト、ハンス・フォン・ビューローでした。1875年、彼の独奏によってボストンで初演され、ロシアの外から評価が届きます。

ニコライも、のちにはこの協奏曲を演奏するようになり、ほかの作品も指揮してチャイコフスキーの活動を支えました。9

家族と過ごす時間、初めてのバレエ

モスクワで働くかたわら、チャイコフスキーは姉アレクサンドラの一家をたびたび訪ねました。姉が暮らしたのは、現在のウクライナにあるカメンカ(カーミアンカ)です。

一家と過ごす間にも作曲に取り組み、その土地で耳にした民謡を作品へ取り入れました。カメンカは、家族を訪ねながら仕事も進められる場所でした。23

1875年には、ボリショイ劇場からバレエ音楽の依頼を受けました。こうして生まれた《白鳥の湖》は、1877年にモスクワで初演されます。当初の上演は現在ほどの評価を得られませんでしたが、チャイコフスキーは、踊りに伴う音楽のなかへ、人物や物語を印象づける旋律を織り込んでいました。3

1877年の転機――結婚、別居、そしてメック夫人

短期間で行き詰まった結婚生活

1877年7月、37歳のチャイコフスキーは、アントニーナ・ミリューコワと結婚しました。彼女は以前に音楽院で学んだことのある女性で、彼に思いを伝える手紙を送っていました。

並んで座るチャイコフスキーと妻アントニーナ
チャイコフスキーと妻アントニーナ。1877年7月、モスクワ。 作者:Ivan Grigoryevich Dyagovchenko/Public domain/Wikimedia Commons

チャイコフスキーは男性に恋愛感情を抱いていたことが、手紙などから知られています。結婚の背景には、周囲からの見られ方への不安や、家庭生活への期待など、複数の事情がありました。10・11

共同生活はほどなく行き詰まり、彼は心身の不調を訴えて妻から離れます。同年秋には別居が決定的となり、弟たちの助けを受けて国外へ移りました。結婚そのものは解消されず、法的には生涯夫婦のままでした。

二人は、結婚に大きく異なる期待を抱いていました。経緯を伝える資料にはチャイコフスキー側の手紙や親族の記録が多く、アントニーナだけに原因があったと決めつけることはできません。10

会って話さずに続いた、手紙の交流

作曲に専念する暮らしを経済面から支えたのが、ナジェージダ・フォン・メック、いわゆるメック夫人でした。鉄道事業で財を成した家の未亡人で、チャイコフスキーの音楽を高く評価していた支援者です。

チャイコフスキーを支援したメック夫人の肖像写真
ナジェージダ・フォン・メック。撮影年・撮影者不詳。 作者:撮影者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

二人の文通は1876年末に始まり、やがて夫人は年間6,000ルーブルを援助するようになります。経済的な支えを得たチャイコフスキーは、1878年に音楽院の教職を離れ、作曲に集中する生活へ移りました。11・12

二人は、対面して親交を結ばないという取り決めを守りました。音楽についての考え、仕事の進み具合、日常の出来事を手紙で伝え合い、交流は長く続きます。

夫人にささげた交響曲第4番について、チャイコフスキーは冒頭の強い響きを「運命」と結びつけて説明しました。その響きは、音楽が進んだ先でも再び現れます。穏やかな場面やにぎやかな場面の途中へ割って入るため、聴き手にも、思いどおりに進まない力の存在が感じられます。13

交響曲第4番と、プーシキンの作品をもとにしたオペラ《エフゲニー・オネーギン》は、どちらも結婚前から着手していた作品です。別居後も旅先で作業を続け、1878年に完成させました。13・14

旅先で書き、舞台へ届ける――創作が広がった時代

ヴァイオリン協奏曲を生んだ、奏者との共同作業

1878年、スイスのクラランに滞在したチャイコフスキーは、ヴァイオリン奏者ヨシフ・コテックとさまざまな曲を弾いて過ごしました。そこから生まれたのが、ヴァイオリン協奏曲です。

作曲中はコテックと試奏し、いったん書いた緩やかな第2楽章を、新しい音楽へ取り替えています。現在の第2楽章「カンツォネッタ」は、その過程で加わりました。演奏家の協力を得て、実際に音を出しながら作品を整えた例です。15

同じ1878年には、姉一家を訪ねたカメンカで《子供のアルバム》の作曲にも取り組みました。甥にささげたこのピアノ曲集では、人形や木馬、踊り、祈りなど、子供の身近な世界が短い音楽になっています。23・24

オペラでは、気持ちが変わる瞬間を描く

1879年に初演された《エフゲニー・オネーギン》では、若い女性タチヤーナが愛の手紙を書きます。思いは受け入れられず、年月を経て立場が逆転しても、二人は結ばれません。14

聴きどころの「手紙の場」では、タチヤーナのためらいや高ぶりに合わせて、音楽の速さや表情が変わります。歌の旋律を聴くだけでも、落ち着こうとしては気持ちがあふれる、その揺れを追うことができます。

初演はモスクワ音楽院の学生たちを中心に行われました。現在の代表作も、初めは若い演奏家たちと舞台へ送り出されたのです。14

モーツァルトへの敬愛と、恩人への追悼

1880年の秋、チャイコフスキーは性格の異なる二つの管弦楽作品を書きました。弦楽器だけによる《弦楽セレナード》と、大砲や鐘の響きでも知られる序曲《1812年》です。

《弦楽セレナード》の第1楽章には、深く敬愛していたモーツァルトの作風を意識したと、本人が記しています。《1812年》は祝祭のために書かれた作品で、教会の祈りを思わせる始まりから、戦闘を描く音楽、華やかな勝利の響きへ進みます。25

1881年には、ヴァイオリン協奏曲がアドルフ・ブロツキーによってウィーンで演奏されました。厳しい批評も受けましたが、ブロツキーはその後も演奏を重ね、この曲を広めていきます。15

同じ1881年、モスクワで彼を迎え入れたニコライ・ルビンシテインが亡くなりました。チャイコフスキーはその死を悼み、1881年末から翌年にかけてピアノ三重奏曲《偉大な芸術家の思い出に》を書きました。

チェロが奏でる深い歌に始まり、後半では一つの旋律がさまざまな姿へ変わっていきます。追悼の作品にも踊るような音楽や華やかなピアノがあり、最後には冒頭の悲しい旋律が戻ります。かつて厳しい批評も交わした相手を、彼は大きな室内楽作品でしのびました。26

世界で自作を指揮する晩年――成功のなかでも続いた模索

交響曲第5番への評価は、本人のなかでも変わった

1880年代後半、チャイコフスキーは自作を指揮する活動を本格化させました。演奏をほかの指揮者に託すだけでなく、自ら各地のオーケストラと接するようになります。1・2

それでも、新作への自信は揺れました。1888年に書いた交響曲第5番については、完成後に満足を示しながら、上演後には作品を厳しく評する手紙も残しています。翌年、ハンブルクでの演奏に満足すると、再び曲への愛着を語りました。17

交響曲第5番では、冒頭にクラリネットが奏でる暗い旋律が、後の楽章にも姿を変えて登場します。終楽章では明るい響きへ変わるため、同じ旋律の表情の違いをたどると、長い曲にも道筋が見えてきます。

劇場との協力が生んだ《眠れる森の美女》

1890年に初演された《眠れる森の美女》は、劇場の責任者フセヴォロシスキー、振付家マリウス・プティパとの協力から生まれました。

舞台衣装を着けて並ぶ1890年の《眠れる森の美女》初演期の出演者たち
《眠れる森の美女》初演期の出演者たち。1890年、マリインスキー劇場。 作者:撮影者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

プティパの計画には、踊りの性格や音楽の長さなど、具体的な指定がありました。チャイコフスキーはそれを受け止め、人物や場面を特徴づける音楽を書いていきます。妖精や姫、王子が登場する童話の世界に、宮廷の華やかな踊りが重なる作品です。5

同じ1890年には、フィレンツェに滞在してオペラ《スペードの女王》の作曲にも集中しました。台本を書いたのは弟モデストです。兄弟の協力で、賭け事の秘密に取りつかれ、恋も人間関係も失っていく男の物語を舞台にしました。27

メック夫人との別れと、アメリカへの旅

1890年には、長年続いたメック夫人との文通と援助が途絶えました。夫人は経済的な事情を理由に挙げていますが、文通まで終わった背景には、なお明らかでない点が残っています。音楽や暮らしを語り合ってきた相手との別れを、チャイコフスキーはつらく受け止めました。11・12

翌1891年には、親しかった姉アレクサンドラも亡くなります。その知らせに接したのは、アメリカへ向かう途中のことでした。家族を失った悲しみを抱えての渡航となります。2・23

ニューヨークでは、カーネギー・ホールの開場を祝う演奏会に出演しました。国内では皇帝アレクサンドル3世から年金を受けており、晩年の彼は国際的に名の知られた作曲家でした。1・18

《くるみ割り人形》と、創作を続ける日々

1892年には、《くるみ割り人形》と最後のオペラ《イオランタ》が、同じ晩にマリインスキー劇場で初演されました。

《くるみ割り人形》の「こんぺい糖の精の踊り」には、チェレスタという楽器が使われています。鍵盤を押すと金属の板が打たれ、小さな鐘のような音が鳴る楽器です。このきらめく響きが、お菓子の国の不思議さを引き立てます。バレエ全体の初演に先立って発表された演奏会用の組曲は、好評を得ていました。6・16

演奏旅行の合間には、モスクワ近郊のクリン周辺で生活しました。1892年から借りた家は、現在、生活と創作を伝える記念館として残されています。19

記念館の解説が伝える日課では、午前に作曲し、昼食後は長く散歩をし、戻ってから楽器への音の振り分けや楽譜の修正、手紙の執筆に取り組んでいました。作曲から楽譜の仕上げ、演奏や出版の準備まで、それぞれの仕事を進める時間が暮らしのなかに確保されていました。28

白樺の林を抜ける秋の小道を描いた創作イメージ
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《悲愴》と最期――最後の交響曲をどう聴くか

1893年6月、チャイコフスキーはケンブリッジ大学から名誉博士号を授与されました。同じ年の夏には、交響曲第6番を完成させます。現在《悲愴》として知られる作品です。1・20

中央に座るチャイコフスキーとロシア音楽協会ハリコフ支部の人々
中央がチャイコフスキー。1893年、ハルキウ(当時ハリコフ)の音楽家たちと。 作者:Alfred Fedecki/Public domain/Wikimedia Commons

この曲には内容上の構想があると本人は手紙に記しましたが、その具体的な意味は明かしていません。音楽を自伝のように読むことはできても、どの場面が人生のどの出来事かを、確定することはできません。20

とりわけ印象に残るのは、終わり方です。第3楽章は行進曲のように勢いを増し、盛大に終わります。そのあとに置かれた最終楽章は、遅く、嘆くような音楽です。高ぶりを重ねた響きは、最後には低い弦楽器へ沈んでいきます。

チャイコフスキーは10月28日、サンクトペテルブルクで初演を指揮しました。その9日後の11月6日、53歳で亡くなります。当時の医師による診断はコレラでした。2・20

死後にはさまざまな説が生まれましたが、自殺説を裏づけのある確定事項として扱うことはできません。《悲愴》を、自らの死を予告した遺書だと断定する根拠もありません。本人はこの交響曲に強い手応えを持ち、その先の活動も考えていました。20・21

生涯を知ったあとに聴きたい5曲

1.ピアノ協奏曲第1番――独奏とオーケストラの受け渡し

有名な冒頭のあとにも、ピアノが歌い、オーケストラが応じる場面が続きます。速い指の動きだけに注目せず、旋律をどちらが受け持っているかを追うと、協奏曲の会話が聞こえてきます。4・9

2.ヴァイオリン協奏曲――静かな歌から、踊る終楽章へ

第2楽章では、弱音器を付けた独奏ヴァイオリンが、落ち着いた旋律を奏でます。そこから休まずに始まる終楽章では、短い音の動きと強いリズムが前へ進みます。続けて聴くと、表情の切り替わりが鮮やかな一曲です。15

3.《弦楽セレナード》――弦楽器だけで変わる響き

木管や金管を使わず、弦楽器だけで書かれた作品です。第2楽章のワルツでは、旋律を担う高い弦と、その下で踊りの拍子を支える弦に耳を分けてみてください。重い響きを作らずに音楽が進む、軽やかな魅力があります。22

4.《くるみ割り人形》――「花のワルツ」のハープから

チャイコフスキー《くるみ割り人形》解説|あらすじと聴きどころ、全曲と組曲の違い
チャイコフスキーのバレエ音楽《くるみ割り人形》Op.71を、あらすじと音楽の流れに沿って解説。金平糖の精の踊り、雪片のワルツ、花のワルツの聴きどころと、組曲Op.71aとの違いが分かります。

「花のワルツ」は、華やかなハープの独奏を経て、ホルンの旋律へ進みます。曲全体が大きく盛り上がる前に、音色だけで場面が開いていくところが聴きどころです。バレエの映像と合わせれば、群舞と音楽の広がりも楽しめます。6

5.交響曲第6番《悲愴》――第3楽章の先まで聴く

チャイコフスキー《交響曲第6番「悲愴」》解説|華やかな行進曲のあと、音楽はなぜ静かに消えるのか
チャイコフスキー《交響曲第6番「悲愴」》の成立背景、題名の意味、全4楽章の聴きどころを解説。5拍子の舞曲、華やかな行進曲、静かに消える終楽章を図解と歴史資料でたどります。

初めて全曲を聴くなら、第3楽章の大きな終わりで止めず、その後の最終楽章まで続けてみてください。盛大な行進のあとに、なぜこの遅い音楽が必要だったのか。答えをひとつに決めず、四つの楽章を通して受ける印象を味わいたい作品です。20・21

チャイコフスキーが残した、歌と踊りの豊かさ

《白鳥の湖》が今日につながる大きな転機を迎えたのは、死後の1895年でした。サンクトペテルブルクでプティパとレフ・イワノフによる改訂上演が行われ、音楽にも手が加えられます。現在のさまざまな上演には、この舞台から受け継がれた要素が残っています。3

チャイコフスキーが書いた音楽は、演奏家や踊り手によって解釈され、次の時代へ渡されてきました。長く歌う旋律、踊りを動かすリズム、場面を変える楽器の音色は、物語を知らない聴き手にも、音楽を追う手がかりを与えてくれます。

ぜひ、《白鳥の湖》の「情景」と、《くるみ割り人形》の「花のワルツ」を続けてみてください。ひとりの作曲家から、寂しさを帯びた歌も、明るく踊る音楽も生まれています。どちらも、チャイコフスキーの生涯を知る入口になるはずです。

楽譜でも確かめたい方へ

ピアノ協奏曲第1番の楽譜(IMSLP) / 交響曲第6番《悲愴》の楽譜(IMSLP)

参考資料

[1] Alexander Poznansky, Tchaikovsky Research, “Tchaikovsky: A Life”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Tchaikovsky:_A_Life

[2] Tchaikovsky Research, “Chronology”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Chronology

[3] Boston Symphony Orchestra, “Tchaikovsky – Swan Lake”
https://www.bso.org/works/tchaikovsky-swan-lake

[4] Tchaikovsky Research, “Piano Concerto No. 1”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Piano_Concerto_No._1

[5] Tchaikovsky Research, “The Sleeping Beauty”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/The_Sleeping_Beauty

[6] Tchaikovsky Research, “The Nutcracker”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/The_Nutcracker

[7] Tchaikovsky, “Autobiography”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Autobiography

[8] Tchaikovsky Research, “Romeo and Juliet”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Romeo_and_Juliet

[9] Boston Symphony Orchestra, “Piano Concerto No. 1 in B-flat minor, Opus 23”
https://www.bso.org/works/tchaikovsky-piano-concerto-no-1

[10] Tchaikovsky Research, “Antonina Tchaikovskaya”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Antonina_Tchaikovskaya

[11] Tchaikovsky Research, “Nadezhda von Meck”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Nadezhda_von_Meck

[12] Berliner Philharmoniker, “Pyotr Ilyich Tchaikovsky and Nadezhda von Meck”
https://www.berliner-philharmoniker.de/en/stories/pyotr-ilyich-tchaikovsky-and-nadezhda-von-meck/

[13] Tchaikovsky Research, “Symphony No. 4”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Symphony_No._4

[14] Tchaikovsky Research, “Yevgeny Onegin”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Yevgeny_Onegin

[15] Tchaikovsky Research, “Violin Concerto”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Violin_Concerto

[16] Los Angeles Philharmonic, “The Nutcracker”
https://www.laphil.com/works/the-nutcracker

[17] Tchaikovsky Research, “Symphony No. 5”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Symphony_No._5

[18] Smithsonian Institution, The William Steinway Diary, “Carnegie Hall”
https://americanhistory.si.edu/steinwaydiary/annotations/?id=903

[19] Tchaikovsky Research, “Klin”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Klin

[20] Tchaikovsky Research, “Symphony No. 6”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Symphony_No._6

[21] Houston Symphony, “Secrets, Rumors, and Lies: Tchaikovsky’s Symphony No. 6, Pathétique”
https://houstonsymphony.org/tchaikovsky-pathetique/

[22] Tchaikovsky Research, “Serenade for String Orchestra”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Serenade_for_String_Orchestra

[23] Tchaikovsky Research, “Kamenka”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Kamenka

[24] Tchaikovsky Research, “Children’s Album”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Children%27s_Album

[25] Los Angeles Philharmonic, “Serenade for Strings in C major, Op. 48”
https://www.laphil.com/works/serenade-for-strings-in-c-major-op-48

[26] Tchaikovsky Research, “The Last Days of N. G. Rubinstein’s Life”; “Piano Trio”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/The_Last_Days_of_N._G._Rubinstein%27s_Life
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Piano_Trio

[27] Tchaikovsky Research, “The Queen of Spades”; La Monnaie / De Munt, “Yours truly, P. Tchaikovsky”
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/The_Queen_of_Spades
https://www.lamonnaiedemunt.be/en/magazine/1657-yours-truly-p-tchaikovsky

[28] P. I. Tchaikovsky House-Museum / Artefact, “The composer’s desk”
https://ar.culture.ru/en/subject/memorialnaya-ekspoziciya-7

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