ロッシーニの生涯|《セビリアの理髪師》の天才は、37歳の後をどう生きた?

あの「フィガロ!」を書いた人に、何が起きたのか

劇場をイメージした創作画像。

「フィガロ、フィガロ!」と、自分の名を歌い上げる理髪師。忙しく駆け回るその姿を、音楽だけで生き生きと浮かび上がらせたのが、ジョアキーノ・ロッシーニです。《セビリアの理髪師》は、今も彼を知る格好の入口になっています。[9]

ところが、この劇場の大スターには、不思議な後半生があります。37歳で書いた《ギヨーム・テル》を最後に、新作オペラが途絶えるのです。その後も、彼は約39年を生きました。残りの人生で、音楽はどこへ向かったのでしょう。[1][3]

代表作の初演で浴びたブーイング、次の仕事を探していた頃の契約問題、病気の日々を支えた妻への献辞。そして71歳で書いたミサ曲。華やかな成功の先までたどると、陽気な音楽の作り手が歩んだ、起伏のある人生が見えてきます。[4][8][14]

1分でわかる生涯 / 劇場への出発 / 成功を支えた人々 / 37歳の転機 / 晩年の創作 / まず聴く5曲

1分でわかる、ロッシーニ

ロッシーニは1792年、イタリアのペーザロに生まれました。音楽家の両親のもとで育ち、18歳でオペラ作曲家としてデビュー。喜劇だけでなく、悲劇的な題材のオペラでも成功し、ナポリ、ウィーン、パリへと活動を広げます。

1829年、37歳で発表した《ギヨーム・テル》が最後のオペラとなりました。しかしその後も歌曲や宗教曲を作曲。健康上の苦難を経て、晩年のパリでは《老いの過ち》と呼ぶ小品群や《小荘厳ミサ曲》を残しました。1868年、76歳で死去。劇場の華やかさと私的な音楽の親密さ、その両方を持つ作曲家です。[1][2][3]

まず聴くなら:《セビリアの理髪師》の〈私は町の何でも屋〉(Largo al factotum)。フィガロが自分の名を繰り返す、おなじみの歌です。まずはこの一曲で、ロッシーニの勢いとユーモアに触れてみてください。[9]

名前ジョアキーノ・ロッシーニ/Gioachino Rossini
生誕1792年2月29日、ペーザロ
死去1868年11月13日、パリ近郊パッシー/満76歳
主な活動オペラ、歌曲、宗教曲、ピアノ曲など
生涯の転機1829年《ギヨーム・テル》以後、新作オペラを作曲しなかった
この記事の入口劇場から離れた後にも続いた、音楽家としての人生
年齢は満年齢。年表は代表的な出来事を選んでいます。

劇場の子どもが、自分の音楽を届けるまで

ロッシーニにとって、音楽は早くから、人が働く現場にありました。父ジュゼッペはホルンやトランペットを吹き、母アンナは歌手として舞台に立っていました。少年は両親の巡業に伴い、音楽家が移動しながら暮らす世界に接します。1792年2月29日に生まれた彼の原風景には、家庭と劇場が重なっていたのです。[1]

ただ、舞台に親しんだ子どもが、そのまま作曲家になれたわけではありません。ボローニャの音楽学校ではチェロやピアノを学び、対位法――複数の旋律を組み合わせる技法――にも取り組みました。歌うこと、楽器を弾くこと、音を組み立てること。その経験が、舞台で声を生かす仕事へつながっていきます。[1]

1810年、18歳で《結婚手形》がヴェネツィアの舞台にかかります。オペラ作曲家としての出発です。2年後には、ミラノのスカラ座からも注文を受けるようになりました。20歳にして、イタリアを代表する劇場へ。そして1813年には《タンクレーディ》と《アルジェのイタリア女》が成功します。[1][2][9]

しかも、1812年だけで新作オペラは5作。人気が出た、という一言では足りません。次の劇場へ移動し、次の歌手に合わせて曲を書き、また舞台に送り出す。その速さで、自分の名前をイタリア各地へ広げていったのです。[9]

ロッシーニの肖像画(1820年)。作者不詳。Wikimedia Commons/PD-Art。

成功は、歌手と劇場の間で育った

1815年、ロッシーニをナポリへ招いたのは、王立劇場の興行主ドメニコ・バルバイアでした。ここでは優れた歌手や合唱、オーケストラと仕事をすることができました。《イングランドの女王エリザベッタ》の主役を歌ったイザベラ・コルブランは、その後も《オテロ》《アルミーダ》などで重要な役を担います。高度な声の技巧と、合唱やアンサンブルの厚み。ナポリの作品には、喜劇で知られるロッシーニの、もう一つの大きな力が現れます。[1][2]

一方、別の都市からも仕事が届きました。1815年12月、ローマで忙しく働く彼は、母への手紙で「獣のように働いている」と書いています。次々に生まれる音楽の裏には、実際に働き続ける若者がいました。[14]

代表作は、ブーイングから始まった

1816年2月20日、ローマで《セビリアの理髪師》が初演されます。ところが、結果は失敗。ロッシーニ自身も母への手紙に、盛大に野次を浴びたことを記しました。今では代表作となった音楽も、最初の晩から歓迎されたわけではなかったのです。[4][14]

流れが変わったのは、2回目の公演からでした。作品は成功へ転じます。初演の評判だけを聞いていたら、私たちはこのオペラをどう想像したでしょう。現在の人気ぶりを知っているからこそ、この出発の意外さがよく伝わります。[4]

なぜ、聴いているだけで勢いが増すのか

ロッシーニの音楽には、同じ音型を繰り返しながら、声や楽器を加え、音量や動きの変化で興奮を膨らませる仕掛けがあります。「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれる特徴です。《セビリアの理髪師》の終幕では、声と楽器が増え、音楽がさらに勢いをつけて進みます。鑑賞するときは、旋律だけでなく、「さっきより何が加わったか」にも耳を向けてみてください。[9]

1817年には《チェネレントラ》がローマで上演され、1822年にはコルブランと結婚してウィーンへ。翌年の《セミラーミデ》を経て、活動の舞台はパリへ広がっていきます。ここからは、イタリアで育てた音楽を、別の言語と劇場へどう届けるか。その仕事が始まります。[1][2]

パリで広がる舞台。そして、37歳の転機

パリでの活動は、単に成功した作品を運ぶだけではありませんでした。《ランスへの旅》を書き、以前の作品を大幅に作り直してフランス語の舞台へ送り出し、《オリー伯爵》へも音楽を生かします。題材、言語、劇場が変われば、作品の形も変わる。ロッシーニは、書いた音楽を別の状況へ適応させる作曲家でもありました。[1][2]

1829年8月3日、パリのオペラ座で《ギヨーム・テル》が初演されます。日本では《ウィリアム・テル》の名でも知られる、フランス語の4幕のオペラ。作曲者は37歳でした。そして、これが最後の新作オペラとなります。[3]

なぜ、次のオペラを書かなかったのでしょう。

実は1830年には、まだ次の作品の台本を求めていました。ところが、同年の七月革命の後、フランス政府との契約をめぐる争いが起きます。他の劇場へ新作を提供することも難しい状況でした。最後の初演を境に、きっぱり引退を宣言して終わった、という話ではありません。

その後には健康上の苦難も重なります。新作オペラから離れた理由を、ひとつに絞ることはできません。それでも、劇場の外に残された作品を追えば、その後に何をしていたのかは見えてきます。[4]

オペラの外で続いた、声の音楽

1835年には歌曲集《音楽の夜会》が出版されます。劇場の大きな物語から離れ、声とピアノで楽しめる曲へ。《踊り》は、その中の一曲です。オペラの登場人物にならなくても、声が音楽の勢いを運ぶ。その楽しさを味わえる入口になります。[5]

もう一つ、劇場から離れた後の大きな仕事が《スターバト・マーテル》です。これは、十字架の下で悲しむ聖母を歌うラテン語の宗教曲。1830年代に最初の形が作られた際には、ロッシーニ以外の作曲家タドリーニの音楽も含まれていました。のちにロッシーニが自分の音楽で全体を完成させ、1842年にパリで演奏されます。

悲しみを歌う宗教曲でありながら、独唱者には伸びやかな旋律が与えられています。後で紹介するテノールの歌を聴くと、劇場で磨いた声の扱いが、祈りの言葉と出会うところに触れられます。[5][12]

出版年・完成稿の年・晩年の創作時期を区別した案内。

支えられながら、再び音楽のある暮らしへ

人生の後半には、苦しい時期もありました。ボローニャやフィレンツェで過ごした年月には健康上の問題が重なり、創作が途切れがちになります。舞台で人を笑わせる音楽を書いた人が、私生活でもいつも陽気だったとは限りません。

その生活を支えたのが、オランプ・ペリシエでした。コルブランとの結婚生活は終わり、彼女が1845年に亡くなった後、ロッシーニは1846年にオランプと結婚します。人との関係も、人生の前半のままではありません。[5][4]

1855年、ロッシーニはパリへ戻ります。1857年には《Musique anodine》をオランプに献呈し、長い病気の間に受けた献身への感謝を書き添えました。舞台の歌姫と仕事を重ねた前半生から、日々の暮らしを支える伴侶と過ごす後半生へ。この献辞には、彼の身近な人に向けた声が残っています。[4]

《老いの過ち》――晩年の音楽は、誰のために?

晩年の私的な音楽会をイメージした創作画像。実際の邸宅の復元ではありません。

《Péchés de vieillesse》。「老いの過ち」あるいは「老年の罪」と訳される、少し人を食った題名です。ロッシーニは、晩年の声楽曲や器楽の小品を、この名のもとにまとめました。

その音楽が鳴ったのは、主に彼の家で開かれた音楽の集まりでした。劇場で不特定多数の観客に向けて新作を上演するのとは、聴き手との距離が違います。近くに歌い手がいて、鍵盤の音が響き、人々が耳を傾ける。大劇場の仕事を離れても、音楽を介して人と会う場所は残っていたのです。[4][6]

聴き手は、自分の家を訪ねてくる人たち。作品の届け先が変わると、作曲家の暮らしと音楽の関係も違って見えてきます。《老いの過ち》の自筆資料は、今もロッシーニ財団に伝わっています。[6]

美食家の顔も、音楽とつながっていた

ロッシーニは食を愛した人物としても知られています。国立ロッシーニ博物館も、料理人マリー=アントワーヌ・カレームとの交友を紹介しています。食卓もまた、人と楽しみを分かち合う場所だったのでしょう。この一面を知ると、人を招き、音楽を聴く晩年の暮らしにも、少し親しみが湧いてきます。[15]

71歳の《小荘厳ミサ曲》。小さいのは、何だろう

1863年、ロッシーニは《小荘厳ミサ曲》を書きました。71歳。最後のオペラから、34年がたっています。

「小」という名から、短い曲を想像するかもしれません。けれども、演奏にはおよそ80分を要します。独唱と合唱がラテン語の祈りを歌う、堂々とした規模の作品なのです。特徴的なのは、2台のピアノとハルモニウムを伴奏に使うこと。ハルモニウムは、空気でリードを鳴らす鍵盤楽器です。管弦楽の量感とは異なる、鍵盤と人の声の組み合わせが、この曲の顔になります。[8]

1864年3月14日、作品はパリのピレ=ウィル家で私的に演奏されました。晩年のロッシーニがたどり着いたのは、小品だけではありません。親密な編成で、長い祈りの流れを組み立てる音楽にも取り組んでいたのです。後に本人が管弦楽版も作りました。そのため、聴くときには、どちらの版かを確かめてみてください。[5][6][8]

ロッシーニ(1865年、Commonsの資料記載による)。撮影:エティエンヌ・カルジャ/パブリックドメイン。

聴く順番で、生涯の見え方が変わる――まず聴きたい5曲

番号順に聴けば、劇場から、歌曲、宗教曲、晩年の音楽へと移れます。

1.《セビリアの理髪師》〈私は町の何でも屋〉

冒頭でご案内した、フィガロの登場の歌〈Largo al factotum〉。今度は、自分の名前を歌う場面の、強弱や速さの変化に注目してみましょう。街中から呼び止められる忙しさが、声だけで伝わってきます。堂々とした歌い出しから、言葉が畳みかけられる場面へ。その切り替わりが、この人物の面白さを作っています。[9]

2.《ギヨーム・テル》序曲

終盤の駆けるような音楽だけでなく、初めから聴いてみてください。チェロから始まる静かな響き、嵐、牧歌的な場面を経て、最後の勢いへ進みます。「有名な最後」の手前に、異なる景色が広がります。最後のオペラへ至った人の、音色と展開の幅に触れる入口です。[10]

3.《音楽の夜会》より〈踊り〉

〈La danza〉では、声とピアノが作る、踊りの勢いを楽しんでみましょう。舞台の大きな装置がなくても、歌は活気を生みます。独唱とピアノの演奏を選ぶと、劇場から少し近い距離へ移った響きを味わえます。[5][11]

4.《スターバト・マーテル》〈その魂は悲しみ〉

〈Cujus animam gementem〉はテノールの独唱。聖母の悲しみを語る宗教的な言葉と、伸びやかな歌の線を、両方意識して聴いてみてください。喜劇で知った作曲家に、別の声の世界があることを感じられます。[12]

5.《小荘厳ミサ曲》〈キリエ〉

最後は、71歳で書いたミサ曲の〈Kyrie〉へ。2台のピアノとハルモニウムを使う版を選んでみてください。声と鍵盤の響きが、若い日の劇場の熱気とは違う距離で届いてきます。伴奏の動きと合唱の重なりを、別々に追ってみるのも一つの聴き方です。[8]

人生の終わりに、故郷へ残したもの

1868年11月13日、ロッシーニはパッシーで亡くなります。76歳でした。

彼の遺産は、故郷ペーザロの音楽教育にも結びつきました。遺言に基づく財産から音楽学校を支える仕組みが生まれ、その歴史はロッシーニ音楽院とロッシーニ財団へつながっていきます。作品を後世へ渡しただけでなく、音楽を学ぶ場所を支えるものも残したのです。[5][7]

もう一度聴くなら、幕の先へ

ロッシーニが興味深いのは、早く成功したことだけではありません。劇場で人々を熱狂させた音楽家が、その仕事を離れ、困難を抱えながら、別の場所で創作を続けたことです。

次に聴くときは、《セビリアの理髪師》のフィガロと、《小荘厳ミサ曲》の合唱を並べてみてください。異なる響きのどちらにも、人の声を音楽にする作曲家がいます。大劇場の幕が下りた後にも、鍵盤のそばで、彼の音楽は続いていました。

参考資料・画像出典

[1] Museo Nazionale Rossini:Biography:生没年月日、両親、教育、初期の上演、主要な転機

[2] Royal Ballet and Opera:Gioachino Rossini:主要作品、ナポリ時代の合唱・アンサンブルと技巧、パリでの活動

[3] Royal Opera House Collections:Guillaume Tell:1829年8月3日初演、フランス語4幕

[4] Treccani:ROSSINI, Gioachino Antonio(Dizionario Biografico):契約、引退前後の状況、健康、1855年パリへの帰還、1857年献辞、私的な音楽会

[5] Comune di Pesaro:Biografia:歌曲集の出版、スターバト・マーテルの二段階の成立、結婚、ミサ曲と死去

[6] Fondazione G. Rossini:Autografi:老いの過ちと小荘厳ミサ曲の自筆資料、鍵盤版と管弦楽版

[7] Fondazione G. Rossini:La Fondazione:遺言と音楽教育、財団の沿革と校訂活動

[8] Carus-Verlag:Petite Messe solennelle:1863年、独唱・合唱・2台のピアノとハルモニウム、作品の規模

[9] Lyric Opera of Chicago:The Barber of Seville learning resources:フィガロの歌の聴きどころ、クレッシェンド、1812年の新作数

[10] Los Angeles Philharmonic:William Tell Overture:序曲のチェロ、嵐、牧歌、終盤の四部分

[11] Les soirées musicales:楽曲資料:歌曲集のLa danza

[12] Naxos/Chandos:ROSSINI Stabat Mater:Cujus animam gementemのテノール独唱

[13] IMSLP:Petite messe solennelle:旧版楽譜掲載、鍵盤版と管弦楽版の区別

[14] Bärenreiter:Il barbiere di Siviglia 校訂版序文:1815年12月の母への手紙、1816年初演、成立の経緯

[15] Museo Nazionale Rossini:Rossini e la gastronomia:食への関心、カレームとの交友を紹介する博物館の解説

画像「幕が下りたあとの劇場」:クラシック音楽の事件簿/2026/AI生成のイメージ画像。本記事用の創作・図解。

画像「ロッシーニの生涯と創作の転機」:クラシック音楽の事件簿/2026/Original diagram。本記事用の創作・図解。

画像「1820年のロッシーニ肖像画」:作者不詳/1820/PD-Art/PD-old-100-expired。Wikimedia Commonsの資料ページ

画像「オペラの後に続いた三つの音楽」:クラシック音楽の事件簿/2026/Original diagram。本記事用の創作・図解。

画像「声と鍵盤のための親密な音楽空間」:クラシック音楽の事件簿/2026/AI生成のイメージ画像。本記事用の創作・図解。

画像「エティエンヌ・カルジャによる晩年のロッシーニ」:Étienne Carjat/1865/PD-old-100-expired。Wikimedia Commonsの資料ページ

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