
《別れの曲》《英雄ポロネーズ》《雨だれの前奏曲》。
パリでのショパンは、貴族たちが教えを求める人気教師でした。冬はレッスンや社交に忙しく、夏には作家ジョルジュ・サンドの邸宅で創作に向き合います。私たちが知る数々の名曲は、演奏、教育、出版、親しい人々との暮らしのなかから生まれました。
20歳で故郷を離れ、その後一度も帰国しなかったショパン。ポーランドで育った青年は、異国でどのように暮らし、ピアノの音楽を変えていったのでしょうか。
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1分でわかる生涯 / 人生をたどる / 代表曲を聴く / 最期と遺産
1分でわかるショパンの生涯
フレデリック・ショパンは1810年、現在のポーランドに生まれました。ワルシャワで音楽を学び、少年時代から演奏と作曲の才能を発揮します。1830年、20歳で海外へ出発した直後、故国で十一月蜂起が勃発。翌年パリに移り、演奏、出版、個人レッスンを通じて地位を築きました。作家ジョルジュ・サンドとの交際が始まると、マヨルカ島での滞在を経て、彼女の邸宅があるノアンが重要な創作の場になります。ノクターン、練習曲、バラード、ポロネーズなどでピアノの表現を広げましたが、病状は次第に悪化。サンドとの別離、イギリスへの旅を経て、1849年にパリで39歳の生涯を閉じます。1・2
まず聴くなら《ノクターン第2番》
最初の一曲には、ノクターン第2番 変ホ長調 Op.9-2がおすすめです。
ゆるやかに揺れる伴奏の上で、右手の旋律が歌います。同じ旋律が戻ってくるたびに飾りが加わり、少しずつ表情が変わるところに耳を向けてみてください。歌手が同じ言葉の歌い方を変えるように、ピアノの一音一音が柔らかく動きます。
穏やかな曲ですが、音をただ均等に並べるだけでは生まれない、細かな呼吸に満ちています。ショパンの音楽へ入る、親しみやすい入口です。3
ショパンの基本情報と人生の転機
ショパンは、ポーランドに生まれ、主にパリで活動したロマン派の作曲家・ピアニストです。創作の中心はピアノ独奏曲ですが、ピアノ協奏曲、歌曲、チェロ・ソナタなども残しています。
生年月日は一般に1810年3月1日とされます。ただし洗礼記録には2月22日とあり、本人と家族が誕生日としていた3月1日との食い違いが残っています。1


ワルシャワの少年が、ピアノで頭角を現す
フランス人の父と、ポーランドで育った音楽
ショパンが生まれたジェラゾヴァ・ヴォラは、ワルシャワの西にある村です。当時はワルシャワ公国の領内でした。フランス出身の父ニコラは現地で教師として働き、ポーランド人のユスティナと結婚します。
一家はショパンが生まれた年にワルシャワへ移りました。彼の成長を支えたのは、この都市での家庭生活と音楽教育です。
幼いショパンは母とともにピアノに触れ、やがてヴォイチェフ・ジヴヌィの指導を受けます。1817年にはト短調のポロネーズが出版され、翌年には慈善演奏会に出演しました。自分で曲を書き、人前で弾く活動が、すでに少年時代から始まっていたのです。2・4
民俗音楽と、作曲を組み立てる力
ワルシャワで育ったショパンには、休暇に訪れた地方の音楽も大切な経験となりました。農村で耳にした踊りや歌への関心は、後のマズルカなどにつながっていきます。
マズルカはポーランドの舞踊に由来する音楽です。三拍子でも、いつも最初の拍だけが強いわけではなく、重心がずれるような独特の弾みがあります。ショパンはそのリズムや旋律の特徴を取り込み、ピアノで聴く作品へと発展させました。
1826年にはワルシャワの音楽学校に進み、ユゼフ・エルスネルのもとで作曲を学びます。複数の旋律を組み合わせる対位法など、音楽の構造を支える訓練も受けました。自由に即興する才能に、長い作品をまとめる技術が加わります。1・2
1829年、19歳のショパンはウィーンで演奏し、好評を得ました。外国の聴衆にも自作を届けられるという手応えを持ち、次の活動を考える段階に進みます。5
20歳の旅立ちと、故郷を離れて生きる選択
二つの協奏曲を携えて
ワルシャワ時代の終わりに、ショパンは二つのピアノ協奏曲を作りました。ヘ短調とホ短調の協奏曲です。現在「第2番」と呼ばれるヘ短調のほうが先に作られ、番号は作曲の順序と一致していません。
これらは、自作を弾くピアニストとして、国外の聴衆に才能を示せる作品でした。オーケストラとともに華やかな技巧と息の長い旋律を聴かせます。
1830年10月、ワルシャワの告別演奏会ではホ短調の協奏曲を演奏。11月2日、友人ティトゥス・ヴォイチェホフスキとともに旅立ちました。1・2
旅先で知った十一月蜂起
出発から一か月もたたない11月29日、ワルシャワでロシアの支配に対する蜂起が起こります。知らせを受けたティトゥスは帰国しましたが、ショパンは国外にとどまりました。

当初は音楽家として経験を積むための旅でした。その途中で、故郷の戦争と家族の安否を心配する立場に置かれます。1831年には蜂起が敗北し、ショパンは同年秋、パリに到着しました。
《革命のエチュード》は、この時期の祖国の悲劇と結びつけて語られる曲です。1
その後、ショパンはロシア大使館で旅券を更新せず、亡命者として国外に暮らす道を選びます。当時のポーランド王国はロシア皇帝の支配下にあり、旅券の問題は故郷を合法的に再訪するうえでの障害となりました。
パリでは亡命した同胞たちと交流し、ポーランドの団体や慈善活動を支えます。国外での生活が長くなっても、故郷との結びつきは続いていました。1

パリで築いた、演奏・出版・レッスンの生活
シューマンの賛辞と、パリでの出発
ショパンがパリに到着した1831年、ドイツでは同い年のシューマンが、その作品を高く評価していました。
「諸君、脱帽したまえ。天才だ!」
12月7日付の音楽誌に掲載された、モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の主題による変奏曲 Op.2の批評に登場する言葉です。二人はまだ会っていません。楽譜を通じて、若い作曲家の独創性が国境を越えて伝わっていたのです。19

1832年2月26日、ショパンはパリのプレイエルのサロンで演奏会を開きました。音楽家や出版社とのつながりが広がり、作品はフランスだけでなく、ドイツやイギリスでも出版されていきます。1
サロンで聴かせるピアニスト
パリではリストと交流し、1833年に出版した《12の練習曲》Op.10を彼に献呈しました。ショパンの練習曲は、指を広げる、音をなめらかにつなぐといった技術上の課題から、その曲ならではの響きや性格を生み出しています。7
大勢の聴衆を集める演奏家が脚光を浴びるなか、ショパンの公開演奏の回数は多くありませんでした。
彼の重要な活動の場は、個人の邸宅などで音楽や会話を楽しむサロンでした。聴衆との距離が近い環境で、微妙な音色や装飾、旋律の細かな動きを聴かせていたのです。5
人気教師ショパンの日常
生活を支える大きな柱となったのが、ピアノの個人レッスンです。
パリでは、貴族を中心にショパンの指導を求める生徒が集まりました。標準的なレッスン料は20フラン、出張なら30フラン。作曲と並んで、教える仕事に多くの時間を割いています。
弟子たちの回想には、ショパンが自ら弾いて示し、旋律のまとまりや呼吸を伝えた様子が残ります。手本として大切にしていたのは、当時の優れた歌手たちの歌唱でした。
言葉を一息で運ぶように旋律をつなぎ、強調する音と軽く通る音を弾き分けます。こうした発想が、ピアノを歌わせる技術につながっています。冒頭で紹介したノクターンの、なめらかな旋律と自由な装飾にも、その音楽観が表れています。6
結婚に至らなかった恋と、ジョルジュ・サンドとの出会い
マリアとの将来
1835年、ショパンは保養地カールスバートで両親と再会しました。故郷へ帰ることのできない彼にとって、国外で家族に会う機会でした。
続いてドレスデンで、以前から家族ぐるみで親しかったヴォジンスキ家と再会します。娘のマリアは絵や音楽の才能を持つ女性でした。翌1836年、ショパンは彼女に求婚し、内々の婚約が成立します。
マリアの家族はショパンの健康状態を懸念していました。婚約は公にはされず、結婚に至らないまま関係は終わります。破談の詳しい事情には不明な点も残っています。1・8

作家サンドと、マヨルカ島へ
1836年、ショパンは作家ジョルジュ・サンドと知り合いました。サンドは筆名で、本名はオーロール・デュパン。すでに小説家として名を知られ、ショパンより6歳年上で、息子モーリスと娘ソランジュがいました。交際が本格的になるのは1838年です。二人は結婚せず、互いに創作を続けながら生活をともにしました。

その秋、ショパンはサンドと子どもたちとともに、地中海のマヨルカ島へ向かいます。冬の滞在先には、ヴァルデモサの修道院の一部も使われました。
ところが、暮らしは順調に進みません。雨や寒さ、住居をめぐる問題が重なり、ショパンの体調は悪化します。ピアノの手配にも苦労し、1839年2月、一行は島を離れました。9
この滞在中、ショパンは《24の前奏曲》Op.28を仕上げています。すべてを島で一から書いたわけではなく、以前から進めていた仕事の集大成でした。
ショパンの前奏曲集では、ごく短い曲にも、それぞれ独立した表情があります。静かな歌、激しい動き、重い和音。長調と短調を合わせた24の調を巡りながら、曲ごとに景色が切り替わります。10

ノアンの夏に、成熟期の名曲が生まれる

創作に向き合える場所
マヨルカ島から戻り、マルセイユで療養した後、1839年にショパンはサンドの邸宅があるノアンへ向かいました。以後1846年まで、1840年を除く夏をここで過ごします。
パリでのレッスンや社交から離れられるノアンは、まとまった創作に取り組める場所でした。サンドも執筆を続け、画家ドラクロワをはじめとする友人たちが訪れます。11
ここでは、ピアノ・ソナタ第2番・第3番、《幻想曲》、バラード、《子守歌》《舟歌》など、成熟期の重要作が作曲、あるいは完成されました。12
なかでもピアノ・ソナタ第2番は、第3楽章の《葬送行進曲》で知られます。この楽章は先に書かれており、1839年にソナタ全体が形になりました。重い歩みのような行進曲に、静かな歌の部分が挟まれ、終楽章では両手がほぼ同じ動きを急速に繰り返します。この終楽章では、旋律を伴奏の上に乗せる書き方から離れ、両手の急速な動きそのものが曲を形作っています。22
暮らしには遊びもありました。ノアンでは、ショパンがピアノを弾き、周囲の人々が身ぶりや踊りで即興的な芝居を楽しんでいます。後に発展するサンドの私設劇場の活動には、こうした家庭内の娯楽もつながっていました。13

《英雄ポロネーズ》の力強さ
1842年のポロネーズ 変イ長調 Op.53は、《英雄ポロネーズ》として知られています。
ポロネーズは、ポーランドの舞踊に由来する三拍子の音楽です。この曲では、堂々とした主題に加え、中間部で左手が低音のオクターヴを繰り返すところが大きな聴きどころになります。同じ動きが続くなかで勢いが蓄積し、主題の回帰へ進んでいきます。
《英雄》という通称は、ショパン自身が付けた標題ではありません。ポーランドの舞踊から出発しながら、力強い低音と広い音域を使い、演奏会のための大きな作品へ育てています。14
サンドとの別離、そして最後の旅
1847年、長く続いた関係の終わり
サンドの家族との関係には、次第に摩擦が増えていきました。1847年、ソランジュが彫刻家オーギュスト・クレサンジュと結婚すると、娘夫婦とサンドの間で激しい対立が起こります。
ショパンはソランジュを支え、その態度がサンドとの溝を深めました。長年にわたる関係の変化に家族間の不和が重なり、この年、二人は別れます。1846年の滞在を最後に、ショパンがノアンへ戻ることはありませんでした。11・20
友人と演奏したチェロ・ソナタ
晩年には、長年の友人でチェリストのオーギュスト・フランショームとの共同作業もありました。ショパンは彼に《チェロ・ソナタ ト短調》Op.65を献呈します。ピアノを中心に作品を書いてきた作曲家が、チェロとピアノの対話に取り組んだ大作です。21
1848年2月16日、ショパンはパリの演奏会で、フランショームとこのソナタの一部を演奏しました。これがパリでの最後の公開演奏会になります。その直後、二月革命が起こり、都市の生活は大きく変わりました。20
弟子ジェーン・スターリングの支援
同年、弟子のジェーン・スターリングらの支援で、イギリスとスコットランドへ渡りました。各地で演奏し、人々の招きを受けましたが、体調の悪いショパンには移動と社交が大きな負担になります。
11月16日、ロンドンのギルドホールで開かれたポーランド人支援の催しに出演。これが最後の公開演奏となりました。17
39歳の死と、故郷へ戻った心臓

パリへ戻ったショパンの病状はさらに悪化します。1849年には姉ルドヴィカが訪れ、弟を支えました。
10月17日、ショパンはパリで亡くなります。39歳でした。長く患った病気は、一般に肺結核とされています。
遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、本人の希望に従って、心臓は姉によってポーランドへ運ばれました。現在はワルシャワの聖十字架教会に安置されています。1
生涯を知った後に聴きたい、ショパンの5曲
1.ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11
若いショパンの華やかな一面を知るなら、この協奏曲です。
第1楽章では、長いオーケストラの導入の後、ピアノが登場します。その際立つ響きと、続いて現れる柔らかな歌の両方に注目してみてください。終楽章には、ポーランドの舞曲に通じる弾みがあります。旋律の美しさと踊りのリズムを、一曲のなかで楽しめます。1・2
2.練習曲 ホ長調 Op.10-3《別れの曲》
親しみやすい旋律の曲ですが、中間部では響きが鋭くなり、両手の動きも複雑になります。冒頭の穏やかな歌だけを知っていると、その変化に驚くかもしれません。
聴く目印は、激しい中間部を経て、最初の旋律が戻るところです。《別れの曲》はショパンが付けた題名ではありません。7
3.前奏曲 変ニ長調 Op.28-15《雨だれ》
曲を通じて繰り返される一つの音に耳を向けてみてください。穏やかな部分で聞こえた音が、暗い中間部に入ると、重さを増したように感じられます。
《雨だれ》も本人による標題ではありません。雨を連想しながら聴いてもよいですし、同じ音が周囲の和音によって違って聞こえる面白さを味わうこともできます。10
4.バラード第1番 ト短調 Op.23
冒頭の語りかけるような響きから、静かな旋律、広がりのある歌、激しい終結へと進む作品です。
一度現れた旋律が戻ってきたとき、速さや強さ、伴奏がどう変わったかを追うと、長めの曲にも道筋が見えてきます。ショパンがピアノ一台で作り出す、劇的な時間を味わいたい方に向いています。15
5.舟歌 嬰ヘ長調 Op.60
最後は、成熟したショパンの響きを聴ける《舟歌》です。
ゆったりと揺れる伴奏に、二人が一緒に歌うような旋律が重なります。後半に向けて装飾や響きが豊かになり、音楽が大きく満ちていくところが聴きどころです。16
ショパンがピアノに残したもの
ショパンの音楽は、弟子たちの演奏や指導、そして楽譜を通じて受け継がれました。
現在の人気曲のすべてを、本人が生前に出版していたわけではありません。《幻想即興曲》は、友人ユリアン・フォンタナが編集した遺作の一つとして、1855年に出版されました。今日よく知られる作品の顔ぶれには、死後の出版も関わっています。23

1927年には、ワルシャワで第1回ショパン国際ピアノコンクールが開かれます。創設を進めたのは、ピアニストで教育者のイェジ・ジュラヴレフでした。18
ショパンは、ピアノの鍵盤に、歌の呼吸、舞踊の弾み、いくつもの声の重なりを持ち込みました。短い曲ではわずかな音の変化に耳を澄ませ、長い曲では旋律が姿を変えて戻る過程を追う。そのどちらにも、聴く楽しみがあります。
もう一度聴くなら、まず《ノクターン第2番》で旋律の細かな変化を、続いて《英雄ポロネーズ》でリズムと低音の力を味わってみてください。同じ作曲家が書いた二曲の間に、ショパンの表現の幅が聞こえてきます。
参考資料
[1]The Fryderyk Chopin Institute:Fryderyk Chopin / ショパン協会:Biography — general outline
[2]Polish Music Information Centre:Chopin Fryderyk
[3]The Fryderyk Chopin Institute:Nocturnes
[4]The Fryderyk Chopin Institute:Żelazowa Wola
[5]The Fryderyk Chopin Institute:Concerts and performances
[6]Jean-Jacques Eigeldinger:Chopin the teacher
[7]The Fryderyk Chopin Institute:Études
[8]The Fryderyk Chopin Institute:Maria Wodzińska
[10]Culture.pl:Breaking It Down: Chopin’s 24 Preludes
[11]Mon carnet George Sand:Frédéric Chopin(ノアンのガイド・歴史家Vinciane Esslingerによる解説)
[12]Centre des monuments nationaux:Les Étés de Frédéric Chopin à Nohant. 1839–1846
[13]Maison de George Sand à Nohant:Les théâtres de Nohant
[14]The Fryderyk Chopin Institute:Polonaise in A flat major, Op.53 / Polonaises
[15]Los Angeles Philharmonic:Ballade No.1 in G minor, Op.23 / IMSLP:Ballade No.1, Op.23
[16]The Fryderyk Chopin Institute:Barcarolle
[17]The Chopin Society UK:Chopin’s visit to Britain, 1848
[18]ショパン国際ピアノコンクール公式:99 years of the Chopin Competition
[19]Yale University Library:シューマンによる1831年の批評
[20]ショパン協会:Chronicle of life and works, 1846–1849
[21]The Fryderyk Chopin Institute:Auguste Franchomme
[22]ショパン国際ピアノコンクール公式:Sonata in B flat minor, Op.35 / Polish Music Heritage:Sonatas
[23]Chopin National Edition:Various Compositions, Source Commentary(《幻想即興曲》の資料と1855年の出版)
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