チャイコフスキー《ヴァイオリン協奏曲》解説|大きく歌い、激しく踊る、一本のヴァイオリン

ヴァイオリンと弓を置いた演奏会の雰囲気の静物
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一本のヴァイオリンが、オーケストラを前に伸びやかに歌います。旋律が高まるにつれて音の動きは細かくなり、やがて大きな合奏が、その歌を引き受けます。

チャイコフスキーの《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35》は、旋律の豊かさと、独奏者の鮮やかな技巧が結びついた作品です。静かに声をひそめる場面もあれば、弓が激しく動き、踊りのリズムがあふれる場面もあります。

現在では演奏会の定番ですが、完成してすぐに広く受け入れられたわけではありません。作曲を助けた人、上演を見送った人、作品に惹かれて演奏を実現した人。その歩みを知りながら、三つの楽章を聴いてみましょう。

1分でわかる、ヴァイオリン協奏曲

《ヴァイオリン協奏曲》は、チャイコフスキーが1878年、スイスのクラランで作曲した、独奏ヴァイオリンとオーケストラのための作品です。演奏時間は約30〜35分。
第1楽章では、独奏が歌い出す旋律が、華やかな技巧やオーケストラの大きな響きへ育っていきます。第2楽章「カンツォネッタ」は、音色をやわらげたヴァイオリンによる、もの悲しい小さな歌。そこから休まず第3楽章へ入り、ロシアの踊りを思わせる音楽が勢いよく進みます。

まず聴くなら、第1楽章の独奏が歌い出すところ

第1楽章の短い前奏に続いて、独奏が最初の主題を奏でます。まずはこの旋律を覚えてみてください。後にオーケストラが大きく奏でる場面で、同じ歌との再会を楽しめます。

基本情報

項目内容
作曲者ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840–1893)
作品名ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
原題Концерт для скрипки с оркестром, ре мажор, соч. 35
作曲1878年3〜4月、スイスのクララン。作曲時37歳
初期の演奏記録1880年3月13日、ハノーファーでの管弦楽伴奏による演奏が確認されています
広く知られるウィーン公演1881年12月4日。独奏アドルフ・ブロツキー、指揮ハンス・リヒター、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
献呈当初レオポルト・アウアー、のちにアドルフ・ブロツキーへ変更
構成全3楽章。第2楽章と第3楽章は続けて演奏
編成独奏ヴァイオリン、フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット各2、ホルン4、トランペット2、ティンパニ、弦楽合奏
演奏時間約30〜35分
この記事の対象独奏ヴァイオリンと管弦楽による全曲

※日付は新暦に統一しています。初演をめぐる記録の違いは、後半で説明します。

スイスで生まれた、ヴァイオリンのための音楽

結婚生活の破綻のあと、クラランへ

1877年、チャイコフスキーはアントニーナ・ミリュコーヴァと結婚しましたが、生活はほどなく破綻します。その後はロシアを離れ、ヨーロッパ各地に滞在しながら作曲を続けました。

1877年のチャイコフスキーの肖像写真
チャイコフスキー、1877年。撮影者不詳。Public domain。 出典:Wikimedia Commons

翌1878年の春、彼がいたのは、スイスのレマン湖畔にあるクラランです。この時期、そばには若いヴァイオリニストのヨシフ・コテックがいました。モスクワ音楽院でチャイコフスキーに作曲を学んだ、かつての教え子です。

レマン湖から望むクラランの歴史的フォトクローム
湖から望むクララン、1890〜1900年のフォトクローム。成立時より後の資料。Detroit Publishing Co./Public domain。 出典:Wikimedia Commons

二人はヴァイオリンのための作品を一緒に弾き、ラロの《スペイン交響曲》にも触れました。「交響曲」という名前ですが、独奏ヴァイオリンが活躍する協奏的な作品です。華やかな独奏と鮮やかなリズムを持つこの音楽が、新しい協奏曲への刺激となりました。[1][2]

書いて、弾いて、確かめる

チャイコフスキーは、身近にいるコテックの助言を受けながら、ヴァイオリンの動きや響きを確かめていきます。独奏者が実際に弾くことのできる環境で、作品は急速に形になりました。

左にコテック、右にチャイコフスキーが立つ1877年の写真
コテック(左)とチャイコフスキー(右)、1877年。撮影者不詳。Public domain。 出典:Wikimedia Commons

1878年3月27日、出版社のピョートル・ユルゲンソンへ送った手紙では、偶然この協奏曲の着想を得て、書き始めると夢中になり、すでに草稿はほとんどできている、と知らせています。[3]

試奏後には、緩やかな第2楽章を丸ごと書き直しました。新しく置いたのが、現在の「カンツォネッタ」です。外された曲は捨てられず、《なつかしい土地の思い出》Op.42の第1曲「瞑想曲」として残りました。

管弦楽の総譜が完成したのは4月11日。構想から仕上げまで、ひと月ほどの集中的な作業でした。[1]

チャイコフスキーは、協力してくれたコテックへの献呈も考えていました。コテックへ寄せた強い愛情は、弟への手紙にも残っています。しかし、二人の関係をめぐる噂を恐れ、最終的には、著名なヴァイオリニストであるレオポルト・アウアーを選びます。[2]

三つの楽章をたどる

第1楽章は大きな歌、第2楽章は弱音器の小さな歌、第3楽章は踊りのリズム。第2・第3楽章は続けて演奏。
楽章の流れと、最初に耳を向けたい目印。

全体は、第1楽章が大きな比重を占め、そのあとに短い第2楽章と活発な第3楽章が続きます。以下の見出しの副題は、この記事の鑑賞案内です。

第1楽章:Allegro moderato――旋律が大きな響きへ育つ

オーケストラの弦楽器が、穏やかな旋律で曲を始めます。この冒頭の旋律は、この楽章の中心となる主題とは別のものです。やがて勢いが増し、独奏が短い導入を経て、伸びやかな主題を奏でます。[4]

独奏は旋律をそのまま繰り返すだけでなく、細かな音で飾り、音域を広げ、次のまとまりへ進んでいきます。やがて、もう一つの、やわらかく表情豊かな主題も登場。性格の異なる二つの主題が、長い楽章の目印になります。[4][5]

とくに耳に残るのは、独奏で聴いた主題が、オーケストラの大きな響きへ広がるところです。独奏の細やかな表情が、合奏では堂々とした響きへ変わります。

楽章が進むと、オーケストラが休み、独奏だけが長く演奏するカデンツァに入ります。独奏者の腕の見せどころで、この曲ではチャイコフスキー自身が書いています。楽章の終わり近くではなく、主題が戻る前に置かれている点も特徴です。

重なって鳴る音、急な音域の移動、きらめくような高音の中にも、それまでの主題の姿が現れます。[4]

カデンツァのあとには、フルートが主題をやさしく取り戻します。独奏の張り詰めた響きから、息で奏でる管楽器へ音色が変わる、その瞬間が鮮やかです。音楽は主題を再びたどり、最後は独奏とオーケストラが勢いを高めて、力強く結びます。[6]

第2楽章:Canzonetta. Andante――音色をやわらげた、小さな歌

「カンツォネッタ」は、イタリア語で小さな歌を意味します。長い第1楽章のあとに置かれた、短く、親密な音楽です。

木管楽器による静かな導入に続き、独奏ヴァイオリンが、もの悲しい旋律を奏でます。独奏には弱音器が付けられ、音の輪郭や響きの色がやわらぎます。近くで声をひそめて歌うような、響きです。[5][7]

旋律の動きは比較的素朴で、音から音へ丁寧に進みます。聴きどころは、大きな盛り上がりを待つことより、一つのフレーズがどこで膨らみ、どこでおさまるかを追うことです。木管が旋律に加わるところでは、独奏との音色の違いも楽しめます。

中間では表情が明るくなりますが、やがて最初の歌が戻ってきます。音楽が静かに収まっていくと、休止を挟まず、次の楽章へ進みます。

第3楽章:Finale. Allegro vivacissimo――歌が踊りへ変わる

オーケストラが強く踏み込み、静けさを一気に破ります。独奏も短い自由な動きを見せたあと、勢いのある主題を弾き始めます。

ここでは音の長さが短くなり、リズムの歯切れが前へ出ます。弓の動きまで目に浮かぶような反復や、駆け上がる音型が続き、ロシアの民俗舞踊を思わせる活気が生まれます。とくに、拍を強く刻むところと軽く跳ねるところの違いに、舞曲らしさが表れます。[5][7]

ずっと同じ速さで走るわけではありません。途中では音楽の歩みがゆるみ、木管が素朴な味わいの旋律を響かせ、独奏も表情を変えます。落ち着いた部分があることで、再び速い主題が戻ったときの勢いが際立ちます。[6]

終盤では短い音型をたたみかけ、独奏とオーケストラが勢いをそろえて、ニ長調の明るい結末へ向かいます。

まず聴きたい、三つの場面

独奏者の椅子とヴァイオリンケースが置かれた静かな舞台
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1.第1楽章、独奏の歌をオーケストラが引き受けるところ

同じ旋律でも、独奏ではどこを細やかに歌い、合奏ではどこを力強く響かせるのか。その違いを聴き比べてみてください。

2.第2楽章から第3楽章へ移るところ

第2楽章の終わりから、再生を止めずに聴いてみてください。気分が切り替わる瞬間を味わうには、二つの楽章が続いている演奏が向いています。

3.第3楽章、走り出す前の間合い

速い部分だけでなく、歩みがゆるむところに注目すると、独奏者とオーケストラの呼吸が聴こえてきます。どこまで待ち、どの瞬間に勢いを取り戻すか。演奏による表情の違いも楽しめる場所です。

なぜ、これほど難しくても「歌」に聴こえるのか

ヴァイオリンと弱音器を置いた窓辺の静物
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この協奏曲では、歌う旋律と技巧的な部分が、近い距離にあります。旋律が高まると音の動きも活発になり、細かな音を重ねたあとに、再び長く歌う部分へ戻る。耳がそのつながりを追えるので、速い音も一つの流れとして聴こえるのです。

演奏者にとっては、指が正確に動くだけでは足りません。音域が急に変わっても、弓を返しても、旋律の方向が途切れないようにする必要があります。二本以上の弦を同時に鳴らす重音では、複数の音の中から、どの線を歌として聴かせるかも問われます。

第2楽章になると、音の密度は下がります。速い動きで聴き手を引きつけることができない分、音色やフレーズの形が、そのまま音楽の表情になります。外側の二楽章を鮮やかに弾く力と、中央の小さな歌を保つ力。その両方が、一人の独奏者に託されています。

第2楽章の書き直しに見る、全曲の釣り合い

チャイコフスキーが試奏を聴いて見直したのは、全曲の中央に置く音楽でした。第1楽章と終楽章には満足しながら、第2楽章には別の曲が必要だと判断したのです。

現在の構成では、大きな第1楽章のあとに、簡潔なカンツォネッタが置かれます。独奏が活躍する長い楽章を二つ続けるのではなく、その間に音色と規模を変えた歌を挟むことで、終楽章の活気を受け止める耳の余裕が生まれます。

チャイコフスキーは新しい第2楽章について、ほかの二つの楽章によりふさわしい、と手紙で説明しています。[1]

協奏曲を聴き終えたあとに《なつかしい土地の思い出》の「瞑想曲」を聴けば、この作品が持ち得た、もう一つの中央楽章にも触れられます。

「演奏できない」という評判から、演奏会の定番へ

1878年成立、1879年出版と上演見送り、1880年ハノーファー、1881年ウィーン、1882年ロシア初演の年表。
成立・出版・演奏を分けて整理した年表。

アウアーが引き受けなかった協奏曲

レオポルト・アウアーの横顔の肖像写真
レオポルト・アウアー、1913年以前。成立当時の写真ではありません。撮影者不詳。Public domain。 出典:Wikimedia Commons

献呈先となったアウアーによる演奏は、1879年、サンクトペテルブルクで予定されていました。ところが、独奏の難しさが問題となり、実現しませんでした。

チャイコフスキーはのちに、アウアーがこの曲を演奏不可能と判断した、と回想しています。一方、アウアー自身は1912年、技術的に演奏できないと断じたのではなく、楽器の性格に合わず、効果を十分に発揮できない箇所があると考えた、と説明しました。[1][4]

ウィーン公演より前にも、演奏の記録がある

この曲の初演として長く紹介されてきたのは、1881年12月4日、ブロツキー独奏によるウィーン公演です。

しかし、現在では、それより早い1880年3月13日、ハノーファーでの演奏が確認されています。独奏は当地の宮廷楽団のコンサートマスター、ゲオルク・ヘーンフライン、指揮はエルンスト・フランクでした。当時の批評や演奏会の記録を調べた研究によって明らかになったものです。[1][8]

長く初演とされてきたウィーン公演は、作品が広く知られていくうえで、大きな転機となりました。[9]

ブロツキーが、どうしても弾きたかった曲

1881年秋には、作曲を助けたコテックも、予定された演奏を見送ります。相談を重ねて独奏を書いた相手だっただけに、チャイコフスキーは深く失望しました。[9]

ブロツキーは、初めて楽譜を見たときから、この曲を公の場で演奏することを夢見ていた、と手紙に記しています。難しさを克服するには大きな労力がかかりましたが、作品の美しさが、それを忘れさせたとも伝えました。リヒターとともに働きかけ、1881年12月4日、ウィーン・フィルとの公演を実現します。[9]

ヴァイオリニスト、アドルフ・ブロツキーの肖像写真
アドルフ・ブロツキー、1891〜1894年。ウィーン公演より後の肖像。Benjamin Joseph Falk/Public domain。 出典:Wikimedia Commons

このウィーン公演では、批評家エドゥアルト・ハンスリックが激しい批判を浴びせました。独奏の扱いを乱暴と感じ、終楽章の粗野さを嫌った彼は、耳で悪臭を感じるような音楽があり得る、とまで書いています。[5][8]

会場では、反対する声と大きな拍手の両方が起こりました。ブロツキーの手紙によれば、彼は拍手によって三度呼び戻されています。[9]

その手紙への返事で、チャイコフスキーは、批評を読んで初めて、ウィーンの聴衆の前にこの協奏曲を携えて立った勇気の大きさがわかった、と感謝しています。

翌1882年、ブロツキーはロンドンでも演奏し、8月20日にはモスクワでロシア初演を担いました。作品を支持して演奏を重ねた彼へ、献呈先も変更されました。[1][8]

その後はコテックもこの協奏曲を公演で弾き、アウアーも演奏と指導を通して広める側に加わりました。アウアーに学んだハイフェッツやジンバリストらも、この曲を受け継いでいきます。[1][4]

次に聴くときは、独奏の背後にも耳を

初めてなら、第1楽章の最初の主題を覚えて、全曲へ進んでみてください。次に聴くときは、独奏の背後にある木管や弦楽器にも耳を向けると、旋律を支える響きが見えてきます。

演奏を聴き比べるなら、第2楽章の歌い出しや、終楽章で歩みをゆるめるところから。音色、間合い、旋律の膨らませ方に、同じ楽譜から生まれる表情の違いを感じられます。

楽譜・参考資料

IMSLPの《ヴァイオリン協奏曲 Op.35》作品ページ

1. Tchaikovsky Research:Violin Concerto――成立、楽章構成、編成、献呈、出版、演奏記録。

2. Tchaikovsky Research:Iosif Kotek――コテックの役割と、作曲時の協力関係。

3. Tchaikovsky Research:Letter 789――1878年3月27日、ユルゲンソン宛。作曲の進み方についての本人の説明。

4. San Francisco Symphony:Tchaikovsky Spectacular(Michael Steinbergの作品解説)――主題、カデンツァ、アウアーの回想、後年の演奏・教育。

5. Los Angeles Philharmonic:Violin Concerto in D major, Op.35――各楽章の特徴、編成、ハンスリックの批評。

6. Queensland Symphony Orchestra:Tchaikovsky and Beethoven(2019年公演プログラム)――主に第1楽章のカデンツァからの復帰と、第3楽章の流れ。

7. 東京都交響楽団:第1031回定期演奏会Cシリーズ・作品解説――弱音器を付けた独奏、第2・第3楽章の連続、終楽章の舞踊的性格。

8. Brett Langston:An ‘Accidental’ Premiere?(Tchaikovsky Research Bulletin No.4、2022年)――初期の演奏史、ハノーファーの演奏記録と史料、ウィーン公演後の受容。

9. Tchaikovsky Research:Letter 1924――1882年1月13日、ブロツキー宛。本文および注に紹介されたブロツキーの手紙。

図解と画像について

図解は作品資料と演奏記録をもとに作成しました。歴史資料には実際の年代と出典を添えています。写真風の静物・舞台画像は鑑賞のための創作イメージです。

作曲家と名曲の物語を、
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作品解説
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