ラフマニノフ《ヴォカリーズ》解説|言葉のない歌を、声とピアノはどう紡ぐのか

歌詞がなくても、声は語りかける

暖かな照明と青い夕暮れの光に包まれたグランドピアノ
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ゆっくりと伸びる歌声に、ピアノの細かな動きが重なります。音楽はいったん落ち着いたかと思うと、再び高まり、やがて静かな響きへ収まっていきます。

ラフマニノフの《ヴォカリーズ》には、歌詞がありません。歌い手は母音で旋律をつなぎ、声の響きや音の動きによって表情を伝えます。ヴァイオリンやチェロによる演奏でも親しまれていますが、もともとは声とピアノのための歌曲です。

原曲を聴くと、旋律を支えるピアノにも、歌に応じるような線があることに気づきます。この二つの流れに耳を向けると、短い曲のなかの豊かなやり取りが聞こえてきます。

1分でわかる《ヴォカリーズ》

《ヴォカリーズ》Op.34-14は、ラフマニノフが1915年に作曲し、《14の歌曲》の最後に加えた作品です。ボリショイ劇場のソプラノ歌手アントニーナ・ネジダーノヴァに献呈されました。「ヴォカリーズ」は、言葉を用いず母音などで歌う曲を指します。原曲は高声とピアノのために書かれ、ゆるやかな旋律と動き続ける伴奏が、いくつもの高まりを形づくります。演奏時間はおよそ5〜7分。作曲者自身も管弦楽を用いた編曲を残しました。最初は声とピアノの原曲を聴き、終盤でピアノが歌の旋律を受け継ぐところに注目してみてください。

まず聴くなら、声とピアノによる原曲

声の響きと、ピアノが描く線の両方を追いやすい編成です。まずは曲の終わりまで、二人の演奏のやり取りを聴いてみましょう。

《ヴォカリーズ》の基本情報

項目内容
作曲者セルゲイ・ラフマニノフ(1873〜1943)
作品名《14の歌曲》Op.34より第14曲《ヴォカリーズ》
原題Вокализ/Vocalise
作曲・初版出版1915年
原曲の編成高声とピアノ。初期の出版譜にはソプラノまたはテノールと記載
調性嬰ハ短調。移調された版もあります
献呈アントニーナ・ネジダーノヴァ
歌詞なし
構成単一の歌曲
演奏時間およそ5〜7分
声楽版の初演1916年1月25日、モスクワ。ネジダーノヴァ独唱、クーセヴィツキー指揮。声と管弦楽の版
それに先立つ演奏1915年12月、コントラバスと管弦楽の編曲版

歌手と相談しながら仕上げた一曲

歌曲集の成立から3年後に加えられた《ヴォカリーズ》

ピアノのそばに座る1910年代のラフマニノフ
ラフマニノフ、1910年代。撮影者不詳/Public domain。 出典:Wikimedia Commons

ラフマニノフは、ピアノ曲や協奏曲に加え、歌曲も数多く書きました。ロシアの詩人たちの言葉を取り上げ、歌声とピアノによって、その情景や感情を表しています。

Op.34のほかの13曲は1912年に成立しました。《ヴォカリーズ》はその3年後、1915年に作曲され、曲集の最後に加えられています。

「1912年作曲」とする紹介も見られますが、ヘンレ版の校訂では、自筆譜の日付などを根拠に1915年の作品であることが確認されています。 [資料3]

ネジダーノヴァと考えた、歌いやすさと息継ぎ

羽根飾りの帽子を着けたソプラノ歌手ネジダーノヴァ
ネジダーノヴァ、1900〜1915年。撮影:K. A. フィッシャー/Public domain。 出典:Wikimedia Commons

献呈先のネジダーノヴァは、モスクワのボリショイ劇場で活躍したソプラノ歌手です。細かな音の動きを自在に歌うコロラトゥーラを得意とし、モーツァルトやヴェルディなどのオペラに出演していました。

彼女の回想では、ラフマニノフは出版前の曲を繰り返し弾いて聞かせ、二人で歌いやすさや息継ぎを検討したといいます。合わせながら、和声や表情にも修正が加えられました。 [資料1]

最初の稿は変ホ短調、完成稿は全音低い嬰ハ短調です。校訂者は、調を下げたことも歌手の希望を反映した可能性があると考えています。

言葉による区切りがないこの曲では、息を継いでも旋律の流れを保つことが大切になります。長く続くように聞こえる歌は、そうした細部の工夫を伴って仕上げられました。

「歌詞がない」ことをめぐる逸話

ネジダーノヴァが歌詞のないことに戸惑うと、ラフマニノフは、彼女の声と表現があれば言葉以上に伝えられる、という趣旨の返事をしたと伝えられています。 [資料4]

出版から初演へ――器楽版も早くから演奏された

指揮者でコントラバス奏者でもあったクーセヴィツキーの肖像
クーセヴィツキー、1920〜1950年。John Garo/Bain News Service、米国議会図書館所蔵/Public domain。初演より後の写真。 出典:Wikimedia Commons

声とピアノの原曲は、1915年に出版されました。同年12月には、コントラバス奏者としても名高かったセルゲイ・クーセヴィツキーが、コントラバスと管弦楽の編曲版で演奏しています。

翌1916年1月25日、モスクワでネジダーノヴァが歌った声楽版の初演では、ラフマニノフ自身が編曲した管弦楽伴奏が使われました。指揮はクーセヴィツキーです。

作品が誕生したころから、同じ旋律が声と楽器の両方で奏でられていました。

音楽をたどる|声とピアノが作る流れ

閉じた譜面の表紙と、奥に見えるピアノ
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静かな始まり、最初の高まり、後半の展開、静かな結び。長い歌声と和音、音域の広がり、旋律の重なり、ピアノへの受け渡しを示す図。
原曲の流れと聴く目印。鑑賞上の区切りで、楽章区分や時間の比率は示していません。

ここからは、声とピアノの原曲をたどります。以下の四つの区切りは、この記事の鑑賞案内です。全曲は続けて演奏されます。

1.静かな始まり――長い音の下で変わる響き

歌声とピアノの三段譜。ホ短調に移調された《ヴォカリーズ》冒頭
《ヴォカリーズ》の譜例。ホ短調への移調・現代の浄書で、原調の嬰ハ短調とは異なります。浄書:Alton、2007年/Public domain。 出典:Wikimedia Commons

冒頭の指示は「Lentamente, molto cantabile」。ゆっくりと、十分に歌うように、という意味です。ピアノが響きを置き、声が旋律へ入ります。

旋律は、隣り合う音へ細かく動いたり、一つの音を長く保ったりしながら進みます。語尾に当たる言葉がないため、フレーズがどこへ向かい、どこで落ち着くかは、音の動きや強弱から感じ取ることになります。

その下で、ピアノは規則的な音の動きを続けています。声が同じ高さに留まっていても、支える和音が移り変わると、響きの緊張や明るさが変わります。歌声の音程だけを追うと見落としやすい、この変化が冒頭の聴きどころです。

2.最初の高まり――頂点へ至る道筋

音楽が進むにつれて、旋律の音域と強弱の幅が広がります。ピアノの響きも厚くなり、静かな出発から次第に大きな高まりへ向かいます。

高い音へ向かう手前で、歌がどのように勢いを増すかにも耳を向けてみてください。

高まりのあとは、音量が落ち、いったん落ち着きを取り戻します。楽譜には反復もあり、演奏によってはここまでの流れをもう一度たどります。

3.後半の展開――二つの旋律が重なる

後半には「poco più mosso」、少し動きを増して、という指示が現れます。歌に加え、ピアノにも輪郭のある旋律が聞こえてきます。

一方が長い音を保つ間に、もう一方が動く。似た形が別の高さに現れ、声とピアノが重なりながら先へ進む。ここでは、複数の旋律を組み合わせる書き方が、音楽の密度を高めています。

ピアノを聴くときは、和音全体を一度に捉えようとせず、浮かび上がってくる線を一つ追ってみましょう。声との重なり方がわかると、伴奏の印象が変わります。

音楽は再び強い高まりを迎え、その後、細かな動きを残しながら静まっていきます。

4.結び――歌の旋律をピアノが受け継ぐ

終盤では、ピアノの高い音域に、冒頭を思い出させる旋律が現れます。声が長い音を保つそばで、今度はピアノが歌の線をはっきり聞かせます。

ここまで中心にあった歌声と、それを支えてきたピアノの関係が変わる場面です。声の伸ばす音と、鍵盤で奏でられる旋律が重なり、最後の響きへ収まります。

歌詞のない音楽に、どんな表情を聴くか

同じ母音でも、歌の表情は変わる

ヴォカリーズという名称は、声楽の練習曲にも使われます。ラフマニノフはその形を用いて、演奏会で親しまれる一曲を作り上げました。

言葉を発音しなくても、歌い方には多くの選択があります。長い音を少しずつ膨らませるのか、静かに保つのか。細かな音を軽く通るのか、一音ずつ重みを持たせるのか。息継ぎの前後をどうつなぐかによっても、旋律の印象は変わります。

歌い手を替えて聴くときは、声質だけでなく、一つのフレーズをどのようなまとまりとして歌っているかを比べてみてください。同じ楽譜から、異なる語り口が生まれることがわかります。

悲しみや郷愁を、一つの物語に決めない

《ヴォカリーズ》の短調の響きや、緊張してはほどける旋律から、悲しみや懐かしさを感じることがあります。穏やかな慰めを聴く人もいるでしょう。

この曲には、登場人物や出来事を示す歌詞がなく、特定の筋書きも示されていません。また、作曲されたのは1915年で、ラフマニノフが1917年にロシアを離れるより前です。後年の亡命生活を、そのまま作曲の背景として説明することはできません。

何を思い浮かべるかは、聴き手に委ねられています。自分が心を動かされた場所を覚えておき、そこでは旋律や響きがどう変わったのかを聴き直すと、印象を音楽そのものと結び付けられるでしょう。

ヴァイオリン、チェロ、管弦楽で聴く《ヴォカリーズ》

バーガンディーのケースに収まるヴァイオリンと弓
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作曲者も歓迎した、器楽による演奏

ラフマニノフ自身が残した編曲は、声と管弦楽の版、そして管弦楽だけの版です。ヴァイオリンやチェロとピアノの版など、ほかの音楽家による編曲も広く演奏されています。

器楽での演奏について、作曲者の考えを伝える手紙も残っています。1918年、指揮者モデスト・アルトシュレルへの手紙で、ラフマニノフは複数のヴァイオリンが同じ旋律を奏でる演奏を好意的に振り返り、同様の演奏を勧めています。 [資料1]

冒頭の一節を聴き比べる

声とピアノでは、母音の響きと息継ぎが、フレーズの輪郭を作ります。ヴァイオリンやチェロでは、弓による音のつながりや、弦の音色が前に出てきます。

ヴァイオリンなら高音の明るさ、チェロなら中低音の厚みに注目できます。ただし、調や音域は編曲によって異なるため、それぞれの演奏で旋律がどの高さに置かれているかも、印象を変える要素です。

管弦楽版では、旋律の周囲に広がる楽器の響きも楽しめます。原曲でピアノが担っていた動きが、どのような音色で現れるかを聴いてみるのもよいでしょう。

まずは冒頭の一節だけを続けて聴くと、比べやすくなります。音の出だし、長い音の保ち方、フレーズの終わり方に、それぞれの楽器と演奏者の違いが現れます。

次に聴くときは、耳を向ける相手を変えてみる

一度目は歌声を、二度目はピアノを中心に聴いてみてください。旋律を追うときと、それに重なる線を追うときでは、同じ演奏でも気づく場所が変わります。

最後まで聴き終えたら、次は好きな弦楽器の編曲で、同じフレーズを比べてみるのもよいでしょう。

ラフマニノフの生涯|挫折からの再起、祖国を離れても書き続けた音楽
ラフマニノフの生涯を、交響曲の失敗と再起、家族との暮らし、革命後の亡命、晩年の創作からたどります。代表曲の聴きどころと手紙、年表でわかりやすく解説。

参考資料・楽譜

画像・図解の出典

歴史写真と楽譜例の出典・作者・年代・利用条件は各画像の下に記載しています。鑑賞図は本記事のオリジナル図解、イメージ画像は創作です。

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