歌手がいないのに、歌が聴こえる

ピアノの細かな音の上に、ゆったりした旋律が浮かび上がります。句の終わりには息をつくような間があり、音が高まるにつれて、語りかける声にも力がこもるように感じられます。
メンデルスゾーンの《無言歌集》は、ピアノだけで歌の表情を伝える小品集です。よく知られた「春の歌」のほかにも、二人が歌い交わすような曲、舟の揺れを思わせる曲、速い音が駆け巡る曲が収められています。
歌詞の代わりに、旋律の抑揚や伴奏の動きが何を伝えるのか。代表曲をたどりながら、一台のピアノに生まれる歌を聴いていきましょう。
音楽と映像で、作品の魅力をさらに深く。YouTube「クラシック音楽の事件簿」でもご紹介しています。
1分でわかる《無言歌集》
《無言歌集》は、メンデルスゾーンが長年にわたって書いたピアノ独奏曲を、6曲ずつまとめて出版した曲集です。一般に親しまれているのは全8巻48曲。生前に刊行された6巻と、遺稿から没後に編まれた2巻で構成されています。
多くの曲では、歌うような旋律を、流れる音型や和音が支えます。独唱のように一つの声を聴かせる曲もあれば、二重唱や合唱を思わせる曲もあり、「紡ぎ歌」では絶え間ない速い動きが耳を引きます。
一曲はおおむね数分で、それぞれを独立して楽しめます。まずは「春の歌」、次に「デュエット」や「ヴェネツィアの舟歌」と聴き進めると、穏やかな旋律だけではない曲集の表情が見えてきます。
まず聴くなら「春の歌」Op.62-6
主旋律を口ずさむつもりで追ってみてください。そのあとで、旋律の周りを軽やかに動く細かな音に耳を移すと、歌を支える伴奏の働きも楽しめます。
《無言歌集》の基本情報

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作曲者 | フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809〜1847) |
| 原題 | Lieder ohne Worte(言葉のない歌) |
| 編成 | ピアノ独奏 |
| 標準的な構成 | 全8巻、各6曲、計48曲 |
| 作品番号 | Op.19b、30、38、53、62、67、85、102 |
| 成立 | 主に1820年代末から1840年代にかけて |
| 生前の刊行 | 第1巻1832/33年、第2巻1835年、第3巻1837年、第4巻1841年、第5巻1844年、第6巻1845年 |
| 没後の刊行 | 第7巻1851年、第8巻1868年 |
| 演奏時間 | 各曲はおおむね数分。48曲全体では約2時間前後が目安 |
第1巻の刊行年が1832/33年となるのは、ロンドン版が1832年、ドイツ版が1833年に出版されたためです。また、第1巻はOp.19とも表記されますが、声楽曲集Op.19aと区別するときにはOp.19bを使います。
曲の番号には、全48曲を通した番号と各巻内の番号があります。「春の歌」なら、通し番号は第30番、各巻内では第5巻の第6曲です。演奏や楽譜を探すときは「Op.62-6」と指定すると見つけやすくなります。
なお、同名のチェロとピアノのための《無言歌》Op.109や、標準的な48曲に入らないピアノ小品もあります。この記事では、通常《無言歌集》として演奏・出版される8巻を扱います。
《無言歌集》はどのように生まれたのか
姉ファニーへ贈った、初期の「言葉のない歌」

メンデルスゾーンの姉ファニーは、優れたピアニストであり、作曲家でもありました。姉弟は幼いころから互いの音楽を身近に聴き、作品を交わして育っています。
1828年、フェリックスはファニーの誕生日に、彼女の音楽帳へピアノ曲を書き込みました。ファニーが「言葉のない歌」と呼んだこの曲は、標準的な48曲には含まれませんが、ジャンルの成立を考えるうえで大切です。また、姉弟がピアノ曲に言葉を当てはめて楽しんだことをうかがわせる資料も残っています。
家庭で弾かれ、出版社も喜んだ曲集
第1巻のロンドン版は、初めから現在の英語名「Songs without Words」で出版されたわけではありません。「ピアノのための独創的な旋律」という題名で世に出て、フランスでは「言葉のないロマンス」、ドイツでは《Lieder ohne Worte》として広まっていきました。
当時の家庭では、ピアノを弾くことが音楽を楽しむ大切な方法でした。短い一曲を選んで弾けるこの曲集は、そうした音楽生活に入り込んでいきます。
売れ行きのよさを伝えるのが、第4巻Op.53をめぐる出版者ジムロックとのやり取りです。出版後の成功を受けて追加の謝礼が送られ、メンデルスゾーンは1842年10月10日の手紙で喜びと感謝を伝えました。
彼は1845年までに6巻を刊行します。各巻は、書いた曲を機械的に年代順へ並べたものではなく、複数の小品から選んで編まれました。没後に加わった第7・8巻も含め、巻の番号がそのまま各曲の作曲順を示すわけではありません。
女王夫妻も、連弾で楽しんだ

《無言歌集》を楽しんだ人々には、イギリスのヴィクトリア女王と夫のアルバート公もいました。1844年6月10日の女王の日記には、メンデルスゾーンが連弾用に編曲した《無言歌》を弾いたことが記されています。
1847年にも、メンデルスゾーンは夫妻が一緒に弾くための編曲をアルバート公へ送りました。その楽譜は、現在も英国王室のコレクションに収められています。
演奏会で聴くだけでなく、自分たちで鍵盤に向かって楽しむ音楽でもあったことを、こうした記録が伝えています。
全8巻・48曲の見取り図

| 巻・作品番号 | 各巻の第1曲から第6曲 |
|---|---|
| 第1巻 Op.19b | ①ホ長調/②イ短調/③イ長調〈狩りの歌〉/④イ長調/⑤嬰ヘ短調/⑥ト短調〈ヴェネツィアの舟歌〉 |
| 第2巻 Op.30 | ①変ホ長調/②変ロ短調/③ホ長調/④ロ短調/⑤ニ長調/⑥嬰ヘ短調〈ヴェネツィアの舟歌〉 |
| 第3巻 Op.38 | ①変ホ長調/②ハ短調/③ホ長調/④イ長調/⑤イ短調/⑥変イ長調〈デュエット〉 |
| 第4巻 Op.53 | ①変イ長調/②変ホ長調/③ト短調/④ヘ長調/⑤イ短調〈民謡〉/⑥イ長調 |
| 第5巻 Op.62 | ①ト長調/②変ロ長調/③ホ短調〈葬送行進曲〉/④ト長調/⑤イ短調〈ヴェネツィアの舟歌〉/⑥イ長調〈春の歌〉 |
| 第6巻 Op.67 | ①変ホ長調/②嬰ヘ短調/③変ロ長調/④ハ長調〈紡ぎ歌〉/⑤ロ短調/⑥ホ長調 |
| 第7巻 Op.85 | ①ヘ長調/②イ短調/③変ホ長調/④ニ長調/⑤イ長調/⑥変ロ長調 |
| 第8巻 Op.102 | ①ホ短調/②ニ長調/③ハ長調/④ト短調/⑤イ長調/⑥ハ長調 |
〈 〉内には作曲者自身の題名と後世の通称が混在しています。以下では音楽の特徴をたどり、題名の由来は後の節でまとめて確認します。
代表曲をたどる――ピアノはどう「歌う」のか

旋律と伴奏の関係には、独唱・二重唱・合唱を思わせる違いがあります。下の図を目印に、代表曲を聴いていきましょう。

Op.19b-1 ホ長調――旋律の息づかいを聴く
曲集の最初を飾るのは、流れる伴奏の上に、長い旋律が乗る一曲です。
伴奏は和音の音を一つずつほどくように動き、主旋律はそれよりゆったりと進みます。音の速さが違うため、細かな流れの中から歌が浮かび上がって聴こえます。
旋律の区切りにも注目してみましょう。初めのまとまりでは、歌が落ち着きそうになってから、さらに先へ続くところがあります。すぐに句を閉じず、もうひと息伸ばすことで、静かな曲にも動きが生まれます。
歌手が息を配分しながら一つの旋律を運ぶように、どこからどこまでが一続きに感じられるかを追ってみると、演奏ごとの歌わせ方も聴き取りやすくなります。
Op.19b-6、Op.30-6、Op.62-5――三つの「ヴェネツィアの舟歌」
「ヴェネツィアの舟歌」は、第1巻、第2巻、第5巻に一曲ずつ収められています。最初のOp.19b-6には、1830年のヴェネツィア滞在が背景にあります。
三曲を聴くときの目印は、繰り返される伴奏の揺れです。旋律の切れ目でも伴奏は動き、舟が進み続けるような感覚を保ちます。
第1巻の曲はト短調、第2巻は嬰ヘ短調、第5巻はイ短調。同じ種類の音楽でも、音域や和音の色合いによって印象が変わります。
とくにOp.62-5では、旋律が二つの声のように寄り添う響きを楽しめます。
Op.38-6「デュエット」――交互に歌い、やがて重なる
この曲では、高い音域と低い音域の旋律が交互に現れ、その後、一緒に歌うように重なります。
まずは「今、歌を受け持っているのはどちらか」を追ってみてください。高い旋律から低い旋律へ、そして二つの旋律が重なるところへと、歌の形が変わっていきます。声の受け渡しが、音楽の流れをつくります。
メンデルスゾーンが、のちの妻セシル・ジャンルノーと婚約したころの作品です。高い声と低い声を思い浮かべると、ピアノの中の二重唱を追いやすくなります。
Op.62-6「春の歌」――軽やかさをつくる細かな音
明るく滑らかな旋律を持つ「春の歌」。その周りには細かな音が置かれ、主旋律の合間を埋めながら曲を進めます。
旋律が親しみやすいため、そちらに耳が向きますが、伴奏まで同じ重さで響くと、曲全体の印象は変わります。歌の線を保ちながら周囲の音を軽く扱うことで、浮き立つような表情が生まれます。
演奏を聴き比べるなら、旋律をどれくらいくっきり出すか、短い音にどれくらい弾みを持たせるかに注目してみましょう。柔らかく歌う演奏と、軽快に進む演奏では、同じ曲にも違った魅力が感じられます。
この曲を含む第5巻Op.62は、1844年にクララ・シューマンへ献呈されました。

Op.67-4「紡ぎ歌」――速い音の中から、歌を拾う
細かな音が絶えず駆け巡る、ハ長調の一曲です。「春の歌」から続けて聴くと、速度と音の密度の違いがよくわかります。
忙しく動く音をすべて同じように追うと、全体が一つの渦のように聞こえるかもしれません。その中から、少し長く保たれる音や、まとまった旋律として浮かぶ音を拾ってみてください。
速い動きの層と歌の層を聴き分けると、技巧的な曲の中にも旋律が通っていることがわかります。「紡ぎ歌」という通称も、こうした回り続けるような動きから生まれました。
Op.62-3「葬送行進曲」――和音に重みを持たせる
この曲の枠組みをつくるのは、厳かに重なる和音です。一音ずつ流れる伴奏とは違い、まとまって響く音が、音楽の歩みに重さを与えます。
1843年初めに書かれた曲で、前年12月に亡くなった母レーアへの悲しみとの関連が指摘されています。「葬送行進曲」という呼び名も、この厳粛な響きに結びついています。
同じ第5巻の最後には「春の歌」が置かれています。厳かな和音と軽やかな伴奏の違いを、同じ巻の中で比べられます。
「春の歌」「紡ぎ歌」――題名は誰がつけたのか
《無言歌集》の愛称は、すべて同じ由来を持つわけではありません。
三つの「ヴェネツィアの舟歌」、「デュエット」Op.38-6、「民謡」Op.53-5は、メンデルスゾーン自身が題名を掲げて出版した曲です。
「春の歌」には、もう少し複雑な事情があります。作曲者自身が書き写した楽譜の一つに「ある春の歌」という題が残っていますが、Op.62として刊行されたときには、その題は載りませんでした。現在の呼び名には自筆資料の裏づけがあるものの、出版時の標題とは区別されます。
一方、「紡ぎ歌」は、作曲者が承認した題名ではありません。「甘い思い出」など、後世の出版社が加えた呼び名もあります。
「言葉のない歌」に込めた音楽観

曲名が少ないと聞くと、作曲者がどのような情景を思い浮かべていたのか、知りたくなるかもしれません。
1842年、マルク=アンドレ・スーシェも、《無言歌集》の各曲を「あきらめ」「憂い」などの言葉で説明しようとし、意味のつかめない曲についてメンデルスゾーンに尋ねました。
10月15日の返信で、作曲者は、音楽の表現は曖昧すぎて言葉にできないのではなく、むしろ明確すぎて言葉にできない、という趣旨の考えを伝えています。
「憂い」と一言で説明しても、その言葉から思い浮かべる感情は人によって違います。曲の旋律、リズム、響きの移り変わりまでを、その一語に収めることはできません。音楽の意味を尋ねられた彼が答えとして示したのは、その曲そのものでした。
この手紙は、ピアノ曲に言葉をつける行為を否定したものではありません。姉ファニーとの間には言葉を当てはめる試みがあり、曲集外のピアノ曲を、後から歌詞のある二重唱へ仕立て直した例もあります。
短い曲に仕込まれた、「戻ってくるまで」の工夫
多くの曲には、冒頭の音楽が中間部を経て戻る「A―B―A」の構成があります。最初の旋律を覚えておけば、「さっきの歌が戻った」と気づきやすい形です。
ただし、戻り方はいつも同じではありません。なかなか帰り着かない曲も、思いがけず冒頭の旋律が現れる曲もあります。
Op.19b-1では、中間部の終わりに、響きが落ち着きそうで落ち着かない時間が置かれます。もう戻れそうだと感じたところで少し待たされ、そのあとに最初の旋律が現れます。音楽の進み方から、帰り着いたような安堵を感じることもできるでしょう。
この待つ時間は、和音の進行や音の反復によって、作曲の段階から組み込まれています。
二度目に聴くときは、冒頭の旋律が戻る瞬間と、その直前を比べてみてください。親しみやすい歌の背後に、聴き手の期待を動かす構成が見えてきます。
親しみやすい旋律を、自然に歌わせる難しさ
家庭でも親しまれた《無言歌集》ですが、全曲が同じ難しさというわけではありません。「紡ぎ歌」のような速い曲には指の制御が求められ、穏やかな曲では旋律の運び方が問われます。
ピアノは、鍵盤を押して音を出すと、その響きが次第に減衰する楽器です。歌手のように一つの音を保ちながら膨らませることはできません。奏者は次の音へのつなぎ方や音量の配分を調整し、長い旋律が歌い続けているように聴かせます。
同時に、伴奏が主旋律を覆わないよう、それぞれの音の強さを変えなければなりません。同じ手で旋律と伴奏の一部を受け持つこともあり、「右手を強く、左手を弱く」だけでは済まない場面があります。
批評家バーナード・ショーは、パデレフスキの《無言歌》演奏に触れ、モーツァルトやメンデルスゾーンの音楽こそ、奏者の技術の弱点を明らかにするという趣旨の評を書きました。
聴き比べるときも、速さや音量の大きさだけでなく、旋律がどこまで自然につながるかに注目すると、演奏の違いがよく伝わります。
次に聴くなら、一曲から隣の曲へ
気に入った曲が見つかったら、その曲の入った巻を6曲続けて聴いてみましょう。「春の歌」から第5巻全体へ進めば、「葬送行進曲」や三曲目の「ヴェネツィアの舟歌」にも出会えます。
有名曲だけを抜き出すときとは違い、隣り合う曲の速度や響きの変化も楽しめます。次の一曲で、ピアノの歌い方がどう変わるか。そこに耳を向けると、48曲の中から自分の好きな歌が少しずつ増えていくかもしれません。

参考資料・楽譜
- G. Henle Verlag《無言歌集》旧版序文 各巻の刊行年、初期の題名、出版社への手紙、没後出版と標題の扱い。
- Bärenreiter《無言歌集》R. Larry Todd校訂版・目次と序文 全48曲の構成、ファニーとの関わり、「舟歌」「デュエット」などの背景。
- メンデルスゾーン書簡集:1842年10月15日、スーシェ宛 音楽と言葉の関係についての本人の説明。本文では趣旨を日本語で要約しています。
- Hyperion:第1巻Op.19b解説/R. Larry Todd 声楽との関係、第1巻の音楽的な特徴と出版。
- Hyperion:第5巻Op.62を含む解説/R. Larry Todd 「春の歌」の自筆資料、三曲目の舟歌、「葬送行進曲」の背景。
- Hyperion:第6巻Op.67解説/R. Larry Todd 第6巻の構成と「紡ぎ歌」の通称。
- Ullrich Scheideler「メンデルスゾーンの《無言歌》における音楽的な時間構成」 三部形式、旋律の区切り、主題が戻るまでの構成に関する研究。
- Hyperion:《無言歌集》解説/Peter Lamb 受容と演奏、ショーによる批評の紹介。
- IMSLP:《無言歌集》楽譜一覧 全曲版や選集の楽譜を確認できます。版によって標題や編集上の指示が異なります。
- Royal Collection Trust:ヴィクトリア女王夫妻のための連弾用《無言歌》 1847年にアルバート公へ贈られた編曲譜。
画像の出典
- メンデルスゾーンの肖像:Wilhelm Hensel、1847。Public domain。 Wikimedia Commons
- ファニー・ヘンゼルの肖像:Moritz Daniel Oppenheim、1842。Public domain。 Wikimedia Commons
- クララ・シューマンの肖像:Andreas Staub(複製写真:Peter Geymayer)、1839年頃。Public domain。 Wikimedia Commons
- ヴィクトリア女王とアルバート公の結婚肖像:George Bradshaw after Francis William Topham、1840。Public domain。 Wikimedia Commons


