真夜中の食卓に、招いてはいけない客が来る

夜の屋敷で、ひとりの男が食事を楽しんでいます。酒も料理も、音楽もある。ところが扉をたたく音とともに、宴の空気が変わります。現れたのは、人間の客ではありません。
モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』には、甘い口説き文句、愉快な従者、仮面舞踏会、そして背筋が凍る対決が詰まっています。軽快な喜劇を観ていたはずが、いつの間にか、引き返せない場所まで連れていかれる。その鮮やかな変化が、この作品の魅力です。
主人公は、欲しいものを手に入れるためなら、約束も身分も他人の心も利用する貴族。彼を取り巻く人々は、復讐、愛情、結婚、それぞれの願いを抱えています。誰の声を聴くかによって、同じ男の姿まで違って見えてきます。
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1分あらすじ / 登場人物と相関図 / 詳しい物語 / 聴きどころ / 成立背景
『ドン・ジョバンニ』の基本情報
| 作品名 | ドン・ジョバンニ(Don Giovanni)K.527 |
| 正式題名 | Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni(罰せられた放蕩者、またはドン・ジョバンニ) |
| 作曲/台本 | ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト/ロレンツォ・ダ・ポンテ |
| 原作・題材 | ドン・ファン伝説。ベルターティによるガッツァニーガ作品の台本も利用。 |
| 初演 | 1787年10月29日、プラハ・国民劇場(現在のエステート劇場) |
| 言語・構成 | イタリア語/全2幕/ドランマ・ジョコーソ |
| 舞台 | スペインのある都市。時代を特定しない原語台本をもとに、挿絵は17世紀の衣装で統一。 |
| 演奏時間の目安 | 約3時間。例:新国立劇場2026年3月、第1幕95分+第2幕85分=180分。 |
| 休憩込みの目安 | 約3時間25〜30分。新国立劇場2026年3月は25分休憩込み205分、英国ロイヤル・オペラ2026年9月10日は30分休憩込み210分。 |
この記事では、プラハ初演版の物語を軸に、ウィーン上演のために加えられ、現在もよく歌われる曲をあわせて紹介します。最後は、主人公の死後に残された人々が登場する場面まで追います。
1分でわかるあらすじ
女たちを誘惑して回る貴族ドン・ジョバンニは、ドンナ・アンナの家に侵入し、彼女を守ろうとした父の騎士長を決闘で殺します。アンナと婚約者オッターヴィオは復讐を誓い、捨てられたエルヴィーラは彼を追い続けます。ジョバンニは農村の花嫁ツェルリーナにも言い寄り、従者レポレッロに責任を押しつけて逃亡。服を交換する策略で追手をかわしますが、墓地で騎士長の石像に出会い、ふざけて晩餐へ招きます。その夜、本当に屋敷へ来た石像は悔い改めるよう求めます。ジョバンニは最後まで拒み、地獄へ落ちます。残された人々は、それぞれの人生へ戻っていきます。
三人の女性と、逃げ続ける男――登場人物と相関図

ドン・ジョバンニ(バリトン/バス・バリトン)は、物語を動かす貴族。人を引きつける魅力と行動力を持ち、その力を自分の快楽のために使います。レポレッロ(バス)は彼の従者。主人にうんざりしながらも、見張り、伝言、身代わりまで引き受け、災難に巻き込まれます。
ドンナ・アンナ(ソプラノ)は、襲われたうえに父を失った貴族の娘。事件の相手を突き止め、復讐を求めます。婚約者のドン・オッターヴィオ(テノール)は、その悲しみに寄り添いながら犯人を追う人物です。アンナの父、騎士長〈コメンダトーレ〉(バス)は、冒頭で命を落とし、終幕では石像として戻ってきます。
ドンナ・エルヴィーラ(ソプラノ)は、ジョバンニに捨てられた女性。怒って彼を追いかける一方で、その身を案じる気持ちも捨てられません。ツェルリーナ(ソプラノ)は農村の花嫁で、相手はマゼット(バス)。二人の結婚祝いへ、ジョバンニが割り込んできます。
三人の女性を区別する鍵は、アンナが「父の死と自分への暴力」、エルヴィーラが「裏切られた愛」、ツェルリーナが「目の前の結婚」に向き合っていること。同じ相手を追っていても、背負っているものが違います。
詳しい物語――誘惑が、追跡劇へ変わっていく
第1幕|最初の夜から、すでに死者がいる

夜。騎士長の屋敷の外で、レポレッロが見張りをしています。主人は女性を追い、従者は寒い中で働かされる。レポレッロのぼやきは軽快で、物語は一見、いつもの主人と召使いの喜劇として始まります。
そこへ、顔を隠したジョバンニを引き留めるアンナが現れます。彼はアンナの部屋へ入り、彼女に迫ったのです。父の騎士長が駆けつけ、逃げる男に立ちはだかります。二人は剣を交え、騎士長は致命傷を負います。
この瞬間、舞台の音楽は急に静まります。騎士長の命が消えていく声、ジョバンニの反応、レポレッロの恐怖が重なり、それまでの騒がしい夜が、死の現場へ変わる。まだ序盤なのに、作品の底には重い影が落ちています。
ジョバンニは従者と逃げ去ります。戻ってきたアンナが目にするのは、父の亡骸。彼女は婚約者オッターヴィオとともに、父を殺した男への復讐を誓います。
捨てられた女性に、従者が見せる「目録」
夜明けの道で、ジョバンニは怒りに燃える女性の声を聞きます。近づいてみると、相手はかつて自分が捨てたエルヴィーラでした。彼女は、約束を信じて待っていた男を探しに来たのです。
追及を従者に任せ、ジョバンニはその場から逃げます。残されたレポレッロが取り出すのは、主人が関係を持った女性たちを記録した目録。イタリアで640人、ドイツで231人、フランスで100人、トルコで91人、そしてスペインでは1,003人。数と国名が、次々に歌へ変わります。
これが「カタログの歌」。従者は、年齢も身分も選ばない主人の好みを、妙に几帳面に説明します。聴いている側には可笑しくても、エルヴィーラにとっては、自分だけに向けられたはずの愛が一覧表の一項目になる瞬間です。彼女は、男を見つけて報いを受けさせようと決意します。
花嫁を口説く、甘い二重唱

次にジョバンニが出会うのは、ツェルリーナとマゼットの結婚を祝う村人たちです。彼は祝いの席を自分の屋敷へ招き、レポレッロに村人とマゼットを連れていくよう命じます。花嫁だけを残すための、気前のよい招待です。
マゼットは面白くありません。しかし貴族の圧力に押され、その場を離れます。二人きりになったジョバンニは、ツェルリーナに結婚を持ちかけます。自分の小さな館へ行こうと誘い、手を差し出すのです。
「お手をどうぞ」の二重唱では、まず男が短く歌い、女性がためらいながら答えます。別々だった声が、やがて同じ流れに乗り、最後には一緒に進み始める。説得されていく過程そのものが、音楽の形になっています。
ツェルリーナがついていこうとしたところで、エルヴィーラが現れます。彼女はジョバンニの裏切りを告げ、花嫁を連れて立ち去ります。彼が同じ手口を繰り返そうとするたびに、過去の相手が目の前へ戻ってくるのです。
アンナは、犯人の声を聞き分ける
アンナとオッターヴィオは、まだジョバンニを犯人だと知らず、彼に助力を求めます。そこへエルヴィーラが割って入り、男を信用しないよう警告します。ジョバンニは、彼女は正気を失っているのだと説明して、言葉を封じようとします。
そのやり取りを経て、アンナはジョバンニの声から、あの夜の男だと気づきます。彼が去ったあと、アンナはオッターヴィオに、自分の部屋で起きたことを語ります。最初は婚約者かと思ったものの、別人だとわかって抵抗した。逃げる男を追ううちに、父が殺されたのです。
彼女は「今こそおわかりでしょう」で、父を奪った相手への復讐を求めます。ここでオッターヴィオは、親しい貴族が本当にそのような罪を犯したのかを確かめ、彼女のために行動しようとします。二人は同じ事件を見つめながら、アンナは傷ついた当事者として、オッターヴィオは事実を確かめる支え手として立っています。
仮面舞踏会で、逃げ道がなくなる

追われていても、ジョバンニは宴の準備をやめません。「シャンパンの歌」で、酒が回るようにし、踊りを始めさせるよう命じます。目録をさらに増やそうという期待まで歌うその速さには、次の快楽へ突き進む彼の勢いが詰まっています。
一方、ツェルリーナは嫉妬するマゼットをなだめます。仲直りを求める歌と、彼の警戒。その間にもジョバンニの誘惑が続き、村の結婚祝いは落ち着きません。
屋敷には、仮面で顔を隠したアンナ、エルヴィーラ、オッターヴィオがやってきます。ジョバンニは彼らも迎え入れ、自由をたたえて宴を始めます。舞台では、優雅なメヌエットと別の舞曲が重なり、異なる身分の人々が一つの場所で踊ります。
そのにぎわいに紛れて、ジョバンニはツェルリーナを別室へ連れ込みます。やがて響く、助けを求める叫び声。人々が駆けつけると、彼はレポレッロを連れ出し、悪事を働いたのはこの従者だと装います。
しかし、もうごまかしは通じません。三人の追跡者が仮面を外し、ツェルリーナとマゼットも彼を責め立てます。ジョバンニは包囲されながら、なお恐れずに切り抜けようとします。第1幕は、宴が集団の告発へ変わったところで終わります。
第2幕|服を交換すると、責任まで入れ替わる

主人の身代わりにされかけたレポレッロは、もう奉公をやめると言います。ジョバンニは金を渡して引き留め、今度は服の交換を持ちかけます。エルヴィーラの侍女を口説くため、召使いの姿になるのです。
窓辺のエルヴィーラへ、ジョバンニは隠れた場所から愛の言葉を歌います。主人の服を着たレポレッロは、その声に合わせて身振りをする。エルヴィーラは目の前の男をジョバンニと信じ、まだ彼が戻ってくれるという希望に引かれて外へ出ます。
レポレッロに彼女を連れ出させると、本物のジョバンニは侍女へ向けて「窓辺においで」を歌います。マンドリンを伴う、柔らかなセレナーデです。直前までの策略を見ていても、その声だけなら、一途な恋人の歌に聴こえてしまいます。
そこへ、ジョバンニを捜すマゼットと村人たちが来ます。召使いの服を着たジョバンニは、自分をレポレッロだと思わせて彼らを散らし、残ったマゼットを殴って逃げます。あとから来たツェルリーナは、傷ついた夫をいたわり、二人の親密な歌の時間が生まれます。
身代わりの男が、追手に囲まれる
暗い場所を歩くエルヴィーラとレポレッロは、アンナとオッターヴィオ、さらにツェルリーナとマゼットに出会います。皆が、主人の服を着た従者をジョバンニだと思い込みます。レポレッロにとっては、逃げるための変装が、捕まる理由になったのです。
追い詰められた彼は、ついに顔を見せて、自分は主人ではないと明かします。人々が驚く間に、事情を説明して隙をうかがい、その場から逃げ出します。衣装が正体を隠しても、罪の記憶まで消してはくれません。
エルヴィーラには、また裏切られたことへの怒りと、それでも彼の身を案じる心が残ります。「あの恩知らずは私を裏切った」では、その二つが激しく行き来します。彼女が物語の中で何度も戻ってくるのは、まだ終わらせられない愛を抱えているからです。
墓地で、冗談が返事をされる
逃げてきたジョバンニとレポレッロは、墓地で落ち合います。主人は、まだ自分の冒険を笑い話として語っています。ところが突然、夜の空間へ厳かな声が響きます。朝までにはその笑いも終わる、と告げる声です。
声の主は、ジョバンニが殺した騎士長の石像でした。台座の碑文にも、殺した者への復讐が刻まれています。レポレッロは怯えますが、主人は取り合いません。従者に命じて、石像を晩餐へ招待させます。
驚くべきことに、石像はうなずきます。さらにジョバンニ自身が確かめると、招きを受けるという答えが返ってきます。これまで人間を操るために使ってきた言葉が、ここでは死者との約束になりました。
最後の食卓――「悔い改めよ」に、男はどう答えるか

屋敷へ戻ったジョバンニは、豪華な食事を楽しんでいます。舞台上の楽隊が当時のオペラの旋律を演奏し、レポレッロは料理をつまみ食いします。『フィガロの結婚』の「もう飛ぶまいぞ」まで聞こえる、愉快な宴です。
そこへエルヴィーラが訪れます。彼女は、もう愛を取り戻しに来たのではありません。生き方を変えてほしいと願い、最後の説得を試みます。ジョバンニは食事を続け、女性と酒をたたえます。彼女は去り、その直後、恐ろしい叫び声が聞こえます。
続いてレポレッロも、外を見て悲鳴を上げます。扉の向こうにいるのは、白い石の男。ジョバンニは自分で扉を開け、騎士長の石像を迎えます。
石像は食事を求めて来たのではありません。招待を受けた以上、今度は自分の食卓へ来るかと問い、約束のしるしに手を差し出します。ジョバンニはその手を握り、冷たさに驚きます。石像が最後に求めるのは、悔い改めることです。
彼は拒みます。再び迫られても、答えを変えません。死者の重い声と、短く強い拒絶がぶつかり合い、周囲から地獄の声が響きます。ジョバンニは炎と恐怖の中へ呑み込まれます。
その後、残された人々が集まります。アンナは喪の悲しみが癒えるまで一年待ってほしいとオッターヴィオに告げ、エルヴィーラは修道院へ行く決意をします。ツェルリーナとマゼットは家へ戻り、レポレッロは別の主人を探します。皆の人生をかき乱した男が消えると、舞台には、これからを生きる人々が残るのです。
まずはこの一曲から――有名曲と聴きどころ

最初に聴くなら、ジョバンニとツェルリーナの「お手をどうぞ」がおすすめです。短い二重唱の中で、誘う、迷う、同じ方向へ動き出す、という物語が耳だけでも追えます。そこから次の六つへ進むと、このオペラの表情の広さが見えてきます。
① カタログの歌――従者の説明が、笑いと残酷さを生む
レポレッロがエルヴィーラへ主人の恋愛遍歴を説明する、第1幕のアリアです。前半は、国別の数を歯切れよく並べる勢いに注目。後半は歩みがゆったりして、女性の特徴を説明する口ぶりへ変わります。数字をさばく従者の手際と、聴かされる女性の心の傷が、一つの場面で隣り合っています。
② お手をどうぞ――二人の声が、一緒に歩き始める
ジョバンニがツェルリーナを誘う二重唱です。彼が示す旋律へ、彼女が少しずつ応じていく。その返事の仕方を追ってみてください。後半では拍子も変わり、二人の声が軽やかに重なります。「どんな美声か」に加えて、「いつ彼女のためらいが変化したか」を聴くと、短い曲が小さな芝居になります。
③ シャンパンの歌――止まれない主人公の速度
第1幕、宴を準備するジョバンニのアリア。息つく間もないほどの速い流れに、命令と期待が詰め込まれます。ここで歌われるのは、しみじみした愛ではなく、酒と踊りで人々を動かし、さらに女性を手に入れようとする計画です。短時間で駆け抜ける曲だからこそ、彼の行動力が強烈に残ります。
④ 窓辺においで――甘い声が、もっとも疑わしくなる
第2幕、エルヴィーラの侍女に向けて歌うセレナーデです。マンドリンの小さくはじける音と、穏やかな旋律が夜の空気を作ります。ここまでの出来事を知っている観客には、歌の美しさと歌い手への不信が同時に届く。優しい音楽が、そのまま誠実さの証明になるのか。そんな問いまで生まれる曲です。
⑤ あの恩知らずは私を裏切った――怒りの奥に、まだ心配がある
エルヴィーラの第2幕のアリア。ウィーン上演に向けて加えられた曲で、現在の舞台でも大切な聴きどころです。流れるような細かな音の動きに、揺れる心を感じてみてください。裏切りを責めながら、男が危険にさらされることを思うと胸が動く。彼女の音楽は、すっぱり終われない関係を内側から聴かせます。
⑥ 石像との対決――序曲の恐怖が、目の前の出来事になる
終幕の「ドン・ジョバンニ、食事に招かれたので来た」から始まる場面です。石像の低い声に、重々しい管弦楽とトロンボーンの響きが加わり、空間の大きさが変わったように感じられます。序曲冒頭を思い出しながら聴くと、最初から鳴っていた暗い音が、この客の到来へつながっていたことがわかります。
オッターヴィオの歌も聴きたい方には、「彼女こそ私の宝」がおすすめです。ゆっくり流れる息と細かな旋律を両立させながら、アンナを慰めてほしいと周囲へ頼む歌。ジョバンニの急ぎ続ける音楽に対して、相手の悲しみに時間を使う人物の輪郭が現れます。
作品が面白くなる、二つの見方

一つ目|魅力的な音楽が、人物の行為を照らす
ジョバンニの歌には、忘れがたい魅力があります。「お手をどうぞ」の親しみやすさ、「窓辺においで」の優しさ。人物の行動を知っていても、耳はその音楽に引かれます。
この食い違いを、作品の面白さとして聴いてみてください。彼は相手に合わせて口調を変え、花嫁には結婚を約束し、窓辺の相手には恋人の声で呼びかけます。声を使って距離を縮め、望む方向へ人を動かす。その力をモーツァルトは、実際に魅力のある旋律として聴かせています。
一方、女性たちの歌には、それぞれの時間があります。アンナは事件へ立ち戻り、エルヴィーラは過去の約束から離れられず、ツェルリーナはマゼットとの関係を修復します。ジョバンニが次々に先へ進もうとするほど、周囲に残された傷や生活が浮かび上がります。
二つ目|従者の笑いがあるから、最後の恐怖が深くなる
レポレッロは観客が近づきやすい人物です。働きたくない、怖い目に遭いたくない、おいしい料理は食べたい。主人の大きな欲望に対して、彼の願いは身近で、ぼやきや言い訳が笑いを生みます。
ところが、身代わりを押しつけられる場面では、その笑いの奥に主従の力の差が見えます。服は取り替えられても、命令する側と従う側の関係は残る。主人が逃げるため、従者が危険を引き受けるのです。
終幕でも、レポレッロの怯えは舞台に残ります。料理を盗み食いしていた身体が、今度は恐怖で震える。同じ人物の生活感を通して、石像という超自然の存在が、遠い伝説ではなく、目の前の危機になります。喜劇と恐怖が同じ食卓にあることが、この結末を忘れにくくしています。
モーツァルトとダ・ポンテが、伝説を舞台へ連れてきた

『ドン・ジョバンニ』は、1787年10月29日、プラハの国民劇場、現在のエステート劇場で初演されました。モーツァルトは31歳。前年の『フィガロの結婚』に続き、台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテと組んだ作品です。
物語の土台は、ヨーロッパで繰り返し劇にされてきたドン・ファン伝説。女性を誘惑する男と、晩餐へ招かれた石の客という組み合わせは、モーツァルト以前から知られていました。ダ・ポンテは、ジョヴァンニ・ベルターティが書き、ジュゼッペ・ガッツァニーガが作曲した同年のオペラの台本も利用しています。

二人が作ったのは、最後に罰を受ける男を描くだけの物語ではありません。捨てられた女性、父を奪われた娘、その婚約者、農村の夫婦、従者。主人公の周囲に、願いも話し方も違う人々を置くことで、一人の欲望が広い世界を揺らす舞台になりました。
原題は『罰せられた放蕩者、またはドン・ジョバンニ』。作品は「ドランマ・ジョコーソ」、喜劇的な要素を含むドラマと呼ばれます。笑いから悲劇へ、悲劇から日常へと切り替わる舞台を観ると、その呼び名がよく似合うことに気づきます。

翌1788年5月7日には、ウィーンでも上演されました。そのためにモーツァルトは、オッターヴィオの「彼女の心の安らぎこそ」、エルヴィーラの「あの恩知らずは私を裏切った」などを書き加えます。現在の公演では、プラハ版とウィーン版の曲を組み合わせることもあります。
こうした曲の違いは、人物の見え方にも関わります。オッターヴィオの静かな献身や、エルヴィーラの怒りと憐れみを長く聴くほど、彼らが単なる追跡者ではなく、自分の心を持った人間として立ち上がるからです。
初めて観るなら、「誰が何を知ったか」を追う
全曲を最初から覚える必要はありません。第1幕では、アンナがいつ犯人に気づくか、エルヴィーラがどこで誘惑を止めるかに注目。第2幕では、服を交換したあと、誰が本物で、誰が身代わりなのかを追えば、混乱する場面も楽しめます。
そして序曲の冒頭を、耳に残しておいてください。明るい音楽が続くうちに一度忘れた、その暗い響きが、最後の食卓で意味を持ち始めます。
ジョバンニは、たくさんの人へ言葉を投げかけ、約束を利用し、立場を変えて逃げ続けます。ところが、石像との約束だけは、夜の扉をたたいて戻ってきます。甘い二重唱を聴いていた耳が、最後には重い問いと拒絶を聴く。その長い道のりを味わえることが、『ドン・ジョバンニ』を劇場で観る大きな喜びです。
参考資料と画像の出典
[1] モーツァルテウム財団:Don Giovanni 原語台本・校訂版 — 第2幕後半、石像との対決、最後の場面。本文の音楽解説は原語の歌詞と場面に基づく筆者の鑑賞解説。
[2] Librettidopera.it:1787年版の原語台本・第1幕 — 冒頭の侵入・決闘、カタログの数、誘惑、アンナの認識、舞踏会の順序と楽器・拍子。
[3] Librettidopera.it:原語台本・第2幕 — 服の交換、侍女へのセレナーデ、マゼットへの暴行、従者の正体発覚、墓地、最後の晩餐。
[4] モーツァルテウム財団:Libretti-Edition 資料評価 — 1787年10月29日のプラハ初演、1788年5月7日のウィーン上演、ベルターティ/ガッツァニーガの先行台本、終景の版差。
[5] 新国立劇場:2026年3月『ドン・ジョヴァンニ』 — 作品の紹介と、公演例の上演時間。第1幕95分+第2幕85分、休憩25分。
[6] 英国ロイヤル・オペラ:2026年9月10日公演資料 — 公演例の時間:演奏180分、休憩30分、全体210分。
