互いに作品を贈った二人は、なぜ同じ音楽を見ていなかったのか
シューマンの『クライスレリアーナ』と、ショパンの『バラード第2番』。二つの楽譜には、互いの名前が献呈相手として記されています。どちらも静けさと激しさが交差する、ロマン派ピアノ音楽の傑作です。ところが、この相互献呈から思い浮かべる親密な友情と、残された記録の間には、少し距離があります。[7]
二人はともに1810年生まれ。21歳のシューマンは、まだ若いショパンを「天才」と呼び、鮮烈な言葉でドイツの読者に紹介しました。ショパンは独自の音楽を磨き、シューマンも自分の道を進みます。賛辞の大きさが、そのまま二人の共感の深さになったわけではありません。
その距離を知る手がかりは、作品の名前、短い場面のつなぎ方、そして批評家としてのシューマンの言葉にあります。楽譜と記録をたどると、単なる仲の良し悪しよりも興味深い、二つの芸術観が見えてきます。
この記事の読みどころ
「脱帽したまえ」の批評/クララとメンデルスゾーンがいたライプツィヒ/『謝肉祭』の逸話/交差する献呈と、シューマンの率直な評価。
「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」――21歳の批評家の発見
諸君、脱帽したまえ、天才だ!
シューマンによるショパン作品2の批評、1831年(日本語訳)
1831年12月7日、ライプツィヒの『一般音楽新聞』に、ショパンの『「ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ」による変奏曲』作品2の批評が掲載されました。書き手のシューマンも、紹介されるショパンも21歳。この時点では、シューマン自身の雑誌『新音楽時報』はまだ存在していません。[1]

変奏曲の主題は、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』で、主人公がツェルリーナを誘う二重唱です。なじみのある旋律が、ショパンの手にかかると、細かな装飾や大胆な響き、華やかなピアノの動きへ姿を変えます。旋律を飾るだけでなく、楽器の響きそのものを新しくする。その若い発想に、シューマンは強く惹かれました。
彼の文章は、作品の長所を順番に並べる普通の批評とは違います。楽譜を囲む架空の人物たちが言葉を交わし、音楽について考える、小さな物語のように書かれています。情熱的なフロレスタン、内省的なオイゼビウス、思慮深いマイスター・ラロ。複数の声を使うことで、一つの作品への驚きや迷いを、対話として描いたのです。[1]
文学を愛したシューマンにとって、音楽を言葉で語ることと、音で作曲することは近い場所にありました。1834年には『新音楽時報』の創刊に加わり、古い価値観に挑む架空の「ダヴィッド同盟」の世界を、批評と作品に広げていきます。[9]
言葉で広がるシューマンの世界、音の細部を磨くショパンの世界
シューマンの作品では、人物の名前や文学の記憶が、聴くための扉になります。『謝肉祭』の曲名には、自分の分身だけでなく、クララやショパンまで登場します。ひとつの旋律が長く進むというより、さまざまな人物の声や身振りが短い場面となり、次々に現れるのです。

ショパンがとりわけ大切にしたのは、バッハとモーツァルトでした。弟子の証言を集めたニークスの伝記には、バッハを練習することを勧めた様子が記されています。旋律がどう歌い、声部がどう重なり、一つの響きが次の響きへどう移るか。ショパンの音楽を聴くと、そうした細部への鋭い感覚が伝わってきます。[3]
たとえばノクターンでは、右手の旋律が歌のように伸びる一方、左手の伴奏は規則的に揺れています。旋律の息づかいと、下で支える流れ。そのわずかなずれや響きの変化が、ピアノに人の声に近い表情を与えます。人物の名前を知らなくても、音の動きから表情を感じ取れる音楽です。
この違いを考えるうえで、ショパンが1831年末に親友ティトゥスへ送った手紙は興味深い資料です。変奏曲の一音一音を、ドン・ジョヴァンニたちの行動に結びつける長い批評に、ショパンは困惑しています。この言葉は長年、シューマンの批評に対する反応と考えられてきました。しかし、その後の研究では、クララの父フリードリヒ・ヴィークの批評を指すと考えられています。[10][11]
ショパン自身にも文学との接点はありました。シューマンは、バラードについて、ショパンがポーランドの詩人ミツキェヴィチの作品から刺激を受けたと語ったことを伝えています。音楽が詩から生まれることと、曲の各小節を具体的な筋書きへ置き換えること。その間にある距離こそ、ここで考えたい問題です。[5]

ライプツィヒで重なった時間――クララとメンデルスゾーン
二人が直接会ったのは、1835年と1836年のライプツィヒでした。シューマンが作品を通して知っていたショパンが、今度は目の前でピアノを弾く。記録には、その出会いに心を動かされたシューマンの様子が残っています。[2]

クララ・ヴィークは、この交流に先立つ1832年、パリ滞在中にショパンと会っていました。若いクララはショパンの変奏曲を演奏する側からも、彼の音楽に接しています。批評を書くシューマン、作品を弾くクララ。同じ家に近い人々でも、ショパンへの関わり方は異なっていたのです。[2]
1836年のシューマンの日記には、ショパンの演奏に接した喜びと、楽譜を交換したことが記されています。シューマンは自分のソナタと練習曲を贈り、ショパンはバラードを贈る。二人の間には、音楽家としての具体的な交流がありました。[7]

1835年の訪問を伝える別の声が、メンデルスゾーンです。同年10月6日付の家族宛の手紙で、彼はショパンの演奏の独創性と完成された技を称賛しています。自分とは音楽の方向が違っていても、その確かな個性と一緒に過ごすことを楽しめる。そうした態度が、手紙から読み取れます。[3]
この証言は、二人の芸術観の違いを考えるうえでも大切です。同じ様式で書き、同じ作品を好むことだけが、音楽家同士の敬意ではありません。ライプツィヒには、それぞれの音楽が一時的に重なる時間があったのです。
『謝肉祭』の小さな「ショパン」と、表紙を褒めた逸話
1834〜1835年に作られた『謝肉祭』作品9では、仮面舞踏会のように短い曲が入れ替わります。「キアリーナ」はクララ、「エストレラ」は当時の婚約者エルネスティーネ・フォン・フリッケンを指す名前。フロレスタンとオイゼビウスも登場し、シューマンの身近な人物と、架空の人物が一つの音楽の中を行き来します。[4]
さらに、婚約者にゆかりのある町Aschの綴りは、ドイツ語の音名へ置き換えられます。A–Es–C–Hなら、ラ・ミ♭・ド・シ。名前の文字が実際の音になり、いくつもの場面の裏側でつながりを作ります。短い曲の集合の中に、こうした仕掛けが走っているのです。[4]
その中の「ショパン」は、歌うような旋律と、柔らかく広がる伴奏を持つ小品です。シューマンが受け取ったショパンらしさを、自分の作品の登場人物として描いた、親しみのある音楽の肖像とも聴けます。
ところが、ショパンが『謝肉祭』を高く評価したという記録は残っていません。ニークスは弟子マティアスの回想として、ショパンの机にこの楽譜があり、あまり好意的には語っていなかったことを記しています。さらに、出版社主シュレジンガーからヘラーへ伝わった言葉として、「音楽ではない」という厳しい評価も載せています。これは後年の伝聞として残った逸話です。[3]
同じ伝記には、1838年、ヘラーがシューマンから預かった美しい装丁の『謝肉祭』をショパンへ届けた場面も登場します。ショパンはドイツの楽譜の仕立てを褒め、音楽には言及しなかったといいます。「表紙だけを褒めた」という有名な話は、この記録では『謝肉祭』に結びついています。[3]
曲が「未完成品に見えた」とまで、ショパンの内心を決めることはできません。ただし、ここに残っているのは、シューマンの作品への熱意と、ショパンの受け止め方にあった温度差です。文学的な暗号や急な場面転換が、二人を同じ方向へ向かわせるとは限りませんでした。
『クライスレリアーナ』と『バラード第2番』――献呈を音で読む
1838年、シューマンは『クライスレリアーナ』作品16をショパンへ献呈します。題名の源にいるのは、E.T.A.ホフマンが生み出した、気難しく情熱的な音楽家クライスラー。作品は8曲からなり、突き進む動きと、深く沈むような静けさが、さまざまな形で隣り合っています。[6][7]
第1曲では、落ち着く前に次の動きが押し寄せるような勢いがあり、第2曲では柔らかな歌の世界が開きます。その静けさの中にも、性格の違う部分が入り込む。聴いていると、一つの感情をまっすぐ追うより、違う気分の間を何度も行き来するように感じられます。シューマンの対照の作り方が、よく分かる作品です。

ショパンがシューマンへ献呈した『バラード第2番』作品38は、1840年に出版されました。こちらも、柔らかな音楽から激しい音楽への転換が際立ちます。静かなヘ長調の始まりを聴いていると、突然、イ短調の速い動きが割り込んできます。ゆったりした歌と、激しい流れが、曲の中で向き合うのです。[7]
終わりにも注目すると、二人の作品を聴き比べる楽しみが増します。『バラード第2番』は、最初の穏やかなヘ長調へそのまま帰るのではなく、イ短調で閉じられます。静けさが戻っても、冒頭と同じ場所にはいない。対照的な部分を配置するだけでなく、音楽が進んだ後の景色まで変えているのです。
この二面性を、シューマンのフロレスタンとオイゼビウスになぞらえて聴くことはできます。一方、献呈がシューマンへの「反撃」だったとする動機は、資料から確認できません。楽譜に残る確かな事実は、二人が、それぞれ自分の音楽を相手に贈ったことです。
賛美の後にも残った、シューマンの批評の目
ショパンを「天才」と呼んだシューマンは、その後も新作を追い続けました。才能を認めることと、すべての作品の構成に賛成することは、彼の中で別の判断だったのでしょう。
その複雑さがよく分かるのが、1841年の『ピアノ・ソナタ第2番』作品35への批評です。シューマンは、四つの楽章をひとまとめにして「ソナタ」と呼ぶことに疑問を示しました。急速な第1楽章、鋭いスケルツォ、葬送行進曲、そして旋律の輪郭がつかみにくい短い終楽章。これらを一つの作品として、どう受け取るかが問題になったのです。[8]
批評には、形式への不満とともに、作品の美しさやショパンだけの独創性への評価もあります。とりわけ終楽章については、音楽を嘲るようだと感じながら、抗いがたい独自の力を聴き取っています。賛美から失望へ一方向に変わった、という筋書きには収まりません。[8]
『謝肉祭』の断片のつながりに共感しにくかったショパンと、ショパンのソナタのつながりに疑問を持ったシューマン。二人とも自由な音楽を書きながら、相手の自由の形には戸惑う。この交差に、関係の面白さがあります。
交流を年表で振り返る

二人の関係をたどると、華々しい出会い、親密な友情、決定的な決裂という一本道よりも、批評と演奏と献呈が重なりながら、異なる美意識が残り続けた姿が見えてきます。シューマンの言葉はショパンを紹介する力となり、ショパンの音楽は、シューマンの作品や批評を刺激しました。
ショパンは1849年、シューマンは1856年に亡くなりました。今日、二人の作品は同じ「ロマン派」の棚に並びます。その近さを知ったうえで、音楽の中に残る違いへ耳を向けると、聴き慣れた名曲が少し新しく聞こえてきます。[2][6]
『謝肉祭』の「ショパン」は、シューマンが描いた小さな音楽の肖像です。その後にショパン本人の作品を聴けば、他人が見た姿と、本人の声の違いが感じられるでしょう。二人の共通点も距離も、最後にはその音が語ってくれます。
二つの音楽を、実際に聴いてみる
まず『謝肉祭』の「ショパン」を聴き、次に『クライスレリアーナ』と『バラード第2番』を聴くと、人物を描く音楽と、対照を展開する音楽の違いを追いやすくなります。下のリンクは演奏を探すためのYouTube検索です。
参考資料
[1] Yale University Library:シューマンによる1831年のショパン批評
1831年12月7日の掲載誌、二人の年齢、架空の批評人物。
[2] Schumann-Portal:Chopin, Frédéric (1810–1849)
1835・1836年の対面、クララの1832年のパリでの出会い、継続する批評。
[3] Frederick Niecks:Frederick Chopin as a Man and Musician(1888年初版)
第XVII章のメンデルスゾーンの手紙、第XXVI章のバッハ・モーツァルトへの敬愛、マティアスとヘラーの回想。表紙の逸話は謝肉祭として記録。回想の伝聞経路を保持。
[4] G. Henle Verlag:Carnaval op.9 校訂版序文
1834–1835年の制作、Aschの音名暗号、出版事情。
[5] Los Angeles Philharmonic:Ballade No.2 in F Major, Op.38
ミツキェヴィチの詩との関係を伝えるシューマンの批評。文学との接点。
[6] G. Henle Verlag:Kreisleriana op.16
1838年、ホフマンの人物クライスラーへの着想、8曲、シューマンの略年譜。
[7] Culture.pl / Adam Mickiewicz Institute:Unrequited Love – Chopin and Schumann
二度の対面、1836年の日記、相互献呈と1840年の出版。親密さについての過剰な伝説への検討。
[8] Robert Schumann:New sonatas for piano(1841年、1854年評論集収録)英訳抜粋
ソナタ第2番作品35の形式への批判と、独創性・魅力への評価。大学で提供される一次批評の英訳。
[9] G. Henle Verlag:Complete Piano Works, Volume I 校訂版序文
1834年4月の雑誌創刊とシューマンの初期ピアノ作品。
[10] 国際ショパン・ピアノ・コンクール公式:Variations in B flat major, Op.2
手紙の批評の対象がヴィークであるとする、ルドヴィク・エルハルトによる同定。Piano Street公開の1831年批評英訳(https://www.pianostreet.com/blog/files/schumann-article-on-chopin-opus-2.pdf)の編集注とも照合。
[11] Moritz Karasowski:Frederic Chopin, His Life, Letters, and Works, Vol.II(1879年英訳)
第XIII章に収録された1831年末のティトゥス宛手紙。変奏曲の各小節を人物の行動に結びつける批評への反応。旧版の書簡日付・同定に誤りがあり、具体日付は本文に使用しない。


