ミラノの葬列が向かった「音楽家の家」
1901年2月27日、ミラノ。ジュゼッペ・ヴェルディの棺を送る行列が街を横切り、その周囲を大勢の人々が埋め尽くしていました。当時の新聞や後世の研究では、集まった人々は約30万人とも伝えられています。『椿姫』『リゴレット』『アイーダ』を生み出した作曲家に、街全体が別れを告げるような光景でした。[1][3]
ヴェルディが87歳で亡くなったのは、そのひと月前の1月27日です。彼は遺言で、夜明けか夕暮れに、歌や音楽を伴わない、ごく質素な葬儀を望みました。1月30日の葬儀はその希望に沿って行われ、遺体はいったんミラノの記念墓地に安置されます。2月27日の儀式は、そこから最終的な安置場所へ移すための移葬でした。[1][3][6]
この移葬では、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮のもと、約800人の合唱団が『ナブッコ』の〈行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って〉を歌いました。静かな葬儀を望んだ一人の作曲家が、公的な追悼の場では国を代表する存在として送られたのです。[2]

棺が向かったのは、ヴェルディが私財で建てた、高齢の音楽家たちのための家でした。ミラノのブオナローティ広場にある、カーザ・ヴェルディ。正式名は「音楽家のための憩いの家」です。彼は妻ジュゼッピーナ・ストレッポーニとともに、この施設の納骨堂へ移されました。[1][6][13]
なぜ、世界の劇場で成功した作曲家が、人生の終わりに音楽家の住まいをつくったのでしょうか。この家をたどると、旋律を書く手と同じくらい、土地や契約、日々の暮らしに目を配っていたヴェルディの姿が見えてきます。
農場と契約書から見える、作曲家のもう一つの顔
華やかな劇場から離れたサンタ・アガタに、ヴェルディのもう一つの仕事場がありました。故郷ブッセートに近いこの地で、彼は土地を持ち、農場の経営に深く関わります。農作物や家畜、土地の管理は、余暇に楽しむ田園生活を超えた、日常の仕事でした。[7][9]

農業史を研究するジョルゴフィリ・アカデミーの資料は、ヴェルディが収穫や家畜に通じ、現場の作業にも強い関心を寄せていたことを紹介しています。遠くの劇場で自作が演奏されていても、故郷の土地で何が育ち、仕事がどう進んでいるかは、彼にとって切実な問題でした。[7]
音楽の仕事にも、同じように細部を確かめる姿勢が表れています。リコルディ歴史資料館に残る『オテロ』の契約は、1888年12月17日付。音楽と台本の権利の譲渡に対し、20万リラの対価を定め、支払いを段階に分けています。作品を生む仕事は、金額や権利を取り決める仕事と、隣り合わせでした。[8]
この契約から浮かぶのは、完成した楽譜を送り出した後の扱いまで、具体的な条件の中で考える作曲家です。財産を築く過程で身につけた実務的な視線は、やがて音楽家の家を計画するときにも働きます。何人を迎えられるのか。暮らしにいくらかかるのか。長く続けられる収入はいくらあるのか。善意を実際の生活へ変えるには、そうした数字が必要でした。
ヴェルディはすでに、故郷に近いヴィッラノーヴァ・スッラルダで病院の建設を支えていました。工事が終わったのは1888年。地域の人々を支えるその事業に続き、ミラノでは、音楽に生涯を捧げた人々の住まいに力を注ぐことになります。[9]
音楽家を「客人」として迎える家
舞台に立つ仕事には、演奏できる身体と、仕事を依頼する相手が必要です。歌手の声が衰えたり、奏者が演奏を続けられなくなったりすれば、その後の暮らしをどう支えるかが問題になります。人気や成功が、そのまま生涯の安心を保証してくれるとは限りません。
ヴェルディが家を用意しようとした相手は、音楽を職業として生き、困窮した人々でした。財団の公式史には、彼が不遇の同業者を援助するにあたり、短期の支援を重ねるより、収入の見通しを細かく確かめ、規模と継続性を備えた計画を求めたことが記されています。[4][5]
1889年、ヴェルディはミラノで土地を買いました。ジュリオ・リコルディへの手紙では、この時点では用途が具体的に決まっていなかったことを伝えています。その土地に何をつくるかが形を取り、1895年には建築家カミッロ・ボーイトに計画が託されました。カミッロは、『オテロ』『ファルスタッフ』の台本を書いたアッリーゴ・ボーイトの兄です。[4]

家づくりの思想は、入居者の呼び方にも表れています。ヴェルディは、そこで暮らす人々を「客人」と呼びました。財団は今も、この言葉を大切にしています。誰かの施しを受けているという立場より先に、一人の人として迎える。その考えが、建物の中の暮らしにも及んでいました。[4]
初期の計画では、大部屋にベッドを並べる代わりに、二人で使う部屋が考えられました。互いに助け合えるように、という配慮です。制服は定めず、それぞれの服で過ごす方針もありました。安心して食べ、眠れることに加え、長く芸術に携わった人が、自分らしい姿で日常を送れること。その両方を支える家でした。[4]

1899年12月16日、ヴェルディはこの家を支える財団を設立しました。設立の趣旨は、音楽に携わり、貧困の状態にあるイタリア国民を、男女ともに迎えて生活を支えることでした。[5]
入居が始まったのは、彼の死後です。財団の公式説明によれば、ヴェルディは、恩恵を受ける人々から直接感謝されることを望まず、死後の開設を求めていました。1902年10月10日、彼の誕生日に、最初の九人が迎え入れられます。つくった本人がいなくなった後に、この家の暮らしは始まりました。[5]
オペラの収入を、日々の暮らしへ
立派な建物が完成しても、毎日の食事や暖房、職員の給与、建物の修繕には費用がかかります。家を残すという決断には、その中で暮らす人々を支え続ける準備も必要でした。
1900年5月14日の遺言書で、ヴェルディは施設に建物と資産を遺すとともに、自作から生まれる著作権収入を、その維持に充てるよう定めました。遺言にはリコルディ社に対する債権や、ピアノ、芸術活動の記念品なども記されています。住まい、運営の財源、そして音楽家としての記憶を、一つの場所へ託したのです。[6]
彼の作品が劇場で演奏され、権利の使用から収入が生まれる。その収入が、かつて舞台を支えた人々の食卓や生活を支える。オペラの成功を、一度の寄付にとどめず、将来の暮らしへつなぐ仕組みでした。[5][6]
遺言は施設への支援だけでなく、家族や他の相手への遺贈も定めています。サンタ・アガタの家と庭の保存を求める条項もありました。音楽家の家を大切にしたヴェルディは、故郷の暮らしや身近な人々についても、具体的な指示を残していました。[6]

この著作権収入は、財団の公式資料によると1962年に終了しました。その後は、財団が保有する不動産などの資産、支援者からの寄付や遺贈、公的な補助などが、家の運営を支えています。ヴェルディ作品の上演が現在も自動的に施設へ著作権料を生む、という仕組みは終わっています。[5][10]
続いているのは、音楽家の暮らしを守るという目的と、それを実現する組織です。創設者が残した基盤に、後の支援者が資産や寄付を加え、収入源の変化に対応してきました。建物だけでなく、家を続ける方法まで考えたことが、その後の歩みを支えています。
年表でたどる、土地購入から開設まで
土地を買った1889年から、最初の入居者を迎えた1902年まで、計画には十年以上の時間がかかりました。家をつくること、組織を設けること、維持する収入を託すことが、順に進められています。[4][5][6]

| 年・日付 | 出来事 |
|---|---|
| 1888年 | 故郷近くのヴィッラノーヴァ・スッラルダで病院の工事が完成。[9] |
| 1889年 | ミラノで土地を購入。[4] |
| 1895年4月16日 | 音楽家の家の建築工事を契約。[4] |
| 1899年12月16日 | 音楽家のための憩いの家を支える財団を設立。[5] |
| 1900年5月14日 | 遺言書で建物・資産・著作権収入などの遺贈を定める。[6] |
| 1901年1月27日/30日 | ミラノで死去。30日に記念墓地へ仮埋葬。[1] |
| 1901年2月27日 | 妻とともにカーザ・ヴェルディの納骨堂へ移葬。[1][2] |
| 1902年10月10日 | 最初の九人を迎えて開設。[5] |
| 1962年 | ヴェルディ作品からの著作権収入が終了。[10] |
いまも続く暮らしと、世代をつなぐ音楽
カーザ・ヴェルディは、現在も音楽家のための住まいとして活動しています。財団は、歌手、指揮者、オーケストラ奏者、合唱団員、音楽教師など、音楽を職業にしてきた人々を受け入れています。[5][11]
現在の入居要件は、65歳以上のイタリア国民を基本とし、法令や国際的な取り決めに基づく外国人等の受入れも定めています。年齢、必要とする支援、芸術上の実績を考慮して入居を判断し、条件に応じて同居の配偶者も迎えます。これらは、現在の規約に示されている条件です。[11]
館内の生活は、音楽だけで満たされているわけではありません。財団の紹介には、読書や絵画、文章を書く時間、楽器を弾く時間が描かれています。演奏会が開かれれば、長い経験を持つ聴き手たちが、その音楽を迎える。舞台での仕事を終えた後も、音楽との関わりは日常に残っています。[12]
空きがある場合には、成人の音楽学生を受け入れる仕組みもあります。ミラノの音楽学校などに在籍する、支援を必要とする優秀な学生が対象です。これから音楽を仕事にする人と、長くその世界を生きてきた人が、同じ場所で暮らす。高齢の音楽家を支える家には、世代をつなぐ役割も生まれています。[11]

その施設内の納骨堂で、ヴェルディは妻とともに眠っています。彼が最終的な安置場所に選んだのは、自らの名を掲げた記念碑だけがある場所ではなく、これからも人々の暮らしが続く家でした。[6][13]
ヴェルディが選んだ「最も美しい作品」
ヴェルディは友人の彫刻家ジュリオ・モンテヴェルデへの手紙で、自作の中でも、この家をいちばん気に入っていると伝えました。そして、「私の最も美しい作品」と呼んでいます。[5]
『椿姫』や『アイーダ』は、演奏する人がいて初めて音として生まれます。その舞台を支える人々にも、食べる場所、眠る場所、老後を過ごす場所が必要です。ヴェルディが晩年に取り組んだのは、その暮らしを受け止める事業でした。
土地と収入を確かめる実務家の目。音楽を共に生きた人々に向ける思い。その二つが、この家で結びつきました。ミラノのカーザ・ヴェルディには、作曲家の作品を演奏する歴史と、その作品を舞台へ届けてきた人々の人生が、いまも共に受け継がれています。
参考資料・出典
本文の出典番号は以下に対応します。
[1] カーザ・ヴェルディ財団:移葬の記録 — 死去・仮埋葬・移葬の日付と行列の経路。
[2] イタリア文化省:ヴェルディの墓碑 — 1901年2月27日の移葬、約800人の合唱とトスカニーニ。
[3] Francesca Vella, Orating Verdi: Death and the media c.1901 — 群衆数の推計、最初の葬儀と公的な追悼、葬儀映像の同定に関する問題。
[4] カーザ・ヴェルディ財団:建設と起源 — 1889年の土地購入、1895年の工事契約、客人という呼称、初期の二人部屋と制服を用いない方針。
[5] カーザ・ヴェルディ財団:施設と設立 — 1899年の財団設立、1902年10月10日の開設と九人の入居、感謝を避けた開設時期、モンテヴェルデ宛ての言葉。
[6] ヴェルディの遺言書(1900年5月14日、Conoscere Verdi掲載の転記) — 遺贈の内訳、葬儀の希望、妻との埋葬、財産を受け継ぐ他の相手。
[7] Accademia dei Georgofili:Verdi imprenditore agricolo — サンタ・アガタの農業経営と農業への関心。
[8] Archivio Storico Ricordi:オテロの契約資料 — 1888年12月17日の契約、20万リラの対価、権利と分割支払いの条件。
[9] Musei del Cibo:ヴィッラとヴェルディ病院 — ヴィッラの所在地と1888年に完成した病院。
[10] カーザ・ヴェルディ財団:寄付と遺贈 — 著作権収入の1962年終了、公的補助、支援者と寄付。
[11] カーザ・ヴェルディ財団:現在の入居要件 — 65歳以上を基本とする現行条件、音楽職の範囲、配偶者・学生の受入れ、収入に応じた負担。
[12] カーザ・ヴェルディ財団:入居者の活動 — 音楽・読書・絵画などの日常と演奏会。
[13] カーザ・ヴェルディ財団:カーザの記憶 — ヴェルディと妻の納骨堂、館内の空間。

