
ピアノが鐘のような和音を重ね、少しずつ音を強めていきます。やがて細かな音の流れが生まれ、弦楽器の大きな旋律が広がります。ラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》の始まりです。
1901年、この曲を自ら初演したとき、彼は28歳でした。数年前には交響曲の初演で厳しい批判を受け、大きな作品を書くことが難しくなっていました。第2番の協奏曲は、その停滞を経て生まれています。1
その後、協奏曲や交響曲、合唱曲を次々に生み出した彼は、ロシア革命を境に祖国を離れます。以後は、家族の暮らしを支える演奏旅行が生活の中心になりました。
それでも晩年には、《パガニーニの主題による狂詩曲》や《交響的舞曲》を残しています。ラフマニノフは、どのように作曲を取り戻し、暮らす国が変わっても自分の音楽を書き続けたのでしょうか。
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1分でわかるラフマニノフの生涯
セルゲイ・ラフマニノフは、1873年にロシアで生まれた作曲家・ピアニスト・指揮者です。モスクワで音楽を学び、若くして《前奏曲 嬰ハ短調》で名を広めました。交響曲第1番の初演失敗後には創作が停滞しますが、医師ニコライ・ダーリの治療や周囲の支援を受け、《ピアノ協奏曲第2番》で大きな成功を収めます。協奏曲、交響曲、歌曲、合唱曲へ仕事を広げたのち、1917年に家族とロシアを出国。以後は欧米での演奏活動が生活の中心となりました。スイスに設けた夏の住まいでは再び作曲に打ち込み、1940年には最後の大作《交響的舞曲》を完成。1943年、69歳でアメリカに没しました。1,2,3,4

まず聴くなら《ピアノ協奏曲第2番》
最初の一曲には、《ピアノ協奏曲第2番 ハ短調》をおすすめします。ピアノ独奏とオーケストラが共演する、全3楽章の作品です。
第1楽章では、ピアノが細かい音で伴奏に回り、オーケストラが主役になる場面にも注目してみてください。独奏者と楽団が交代しながら、一つの大きな歌を作っています。
ゆったりした音楽が好きなら、第2楽章からでもよいでしょう。静かな伴奏の上を旋律が長く続く、親しみやすい楽章です。1
基本情報と人生の転機
本名はセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ。1873年4月1日、ロシア北西部のノヴゴロド地方に生まれ、1943年3月28日、アメリカのビヴァリーヒルズで亡くなりました。生誕日は新暦で、当時のロシアの暦では3月20日です。出生地の細かな表記には資料間の違いがあります。1,2,3
人生を見渡す目印は、次の七つです。
- 1873年:ロシアに生まれる。
- 1892年:モスクワ音楽院の作曲課程を修了。《アレコ》で大金メダルを受ける。
- 1897年:交響曲第1番の初演が失敗。大作の創作が停滞する。
- 1901年:《ピアノ協奏曲第2番》全曲を初演する。
- 1917年:妻と二人の娘とともにロシアを離れる。
- 1934年:スイスで《パガニーニの主題による狂詩曲》を作曲する。
- 1940〜1943年:《交響的舞曲》を完成。演奏活動を続けたのち、69歳で死去する。1,2,3,4

年表では出来事を順に、次の図では活動地と仕事の変化を見渡せます。

1.家を離れた少年と、チャイコフスキーの励まし
モスクワで身につけた厳しい基礎
ラフマニノフは音楽に親しむ家庭で育ち、幼いころからピアノを学びました。家計が悪化すると、一家は領地を手放してサンクトペテルブルクへ移り、彼は同地の音楽院に通います。3
1885年、12歳のときにはモスクワへ移りました。いとこでピアニストのアレクサンドル・ジロティの勧めで、教師ニコライ・ズヴェーレフのもとへ入ったのです。そこでの生活は厳しく、ピアノの基礎を徹底して鍛えられました。
やがてジロティにピアノを、タネーエフやアレンスキーに、音の重ね方や複数の旋律を組み合わせる技術を学びます。ピアノの訓練と並行して、自分の作品を書く準備を進めていきました。3

卒業制作のオペラを、大作曲家が聴いた
1891年にピアノの課程を終え、翌1892年には作曲の課程も修了。卒業制作のオペラ《アレコ》によって、音楽院の大金メダルを受けました。プーシキンの物語をもとにした、嫉妬と破局を描く作品です。4
同じ1892年には、《前奏曲 嬰ハ短調》も作曲しています。重く打ち鳴らすような和音が印象的な短いピアノ曲です。やがて国外でも広く知られ、演奏会で繰り返し求められるようになります。1,4
若い才能を励ました一人が、チャイコフスキーでした。1893年にボリショイ劇場で《アレコ》が初演された際も客席におり、熱心に拍手を送っています。その後の手紙でも作品を気に入ったことを伝えました。

チャイコフスキーは、自作の《イオランタ》と《アレコ》を同じ日に上演する案まで示しました。ところが同じ年、チャイコフスキーは急死します。ラフマニノフは追悼のため、《悲しみの三重奏曲第2番》を書きました。5
2.交響曲の失敗から、《ピアノ協奏曲第2番》へ
自信を揺るがした1897年の初演
1897年、サンクトペテルブルクで交響曲第1番が初演されました。指揮は作曲家でもあったアレクサンドル・グラズノフ。結果は厳しいもので、批評家セザール・キュイは、地獄の音楽院を持ち出して作品を酷評しています。1,4
この経験で作曲への自信が揺らぎ、その後、大きな新作に取り組めない時期が続きました。
同じ1897年、実業家サーヴァ・マーモントフの私設オペラで指揮の仕事を始めています。ここで出会ったバス歌手フョードル・シャリアピンとは、長い交友が生まれました。1899年にはロンドンでも指揮とピアノを披露しています。2,4
献辞に残った医師の名前
1900年、ラフマニノフは医師ニコライ・ダーリの治療を受けました。催眠を用いた治療に加え、睡眠や食欲、日中の気分を整え、作曲への意欲を取り戻すための対話が行われたと伝えられています。家族や友人も、受診と生活を支えました。6
治療を経た1900年の夏、彼は再び協奏曲(第2番)を書き始めます。第2・第3楽章を先に仕上げ、同年12月、モスクワで披露しました。翌1901年には第1楽章も完成。11月9日(新暦)、自身のピアノとジロティの指揮によって全曲が初演されました。
《ピアノ協奏曲第2番》は成功を収めました。作品はダーリに献呈され、楽譜には再出発を支えた医師の名前が残っています。1


3.家族との暮らしと、次々に生まれた代表作
作曲する場所を求めて
1902年、ラフマニノフはいとこのナタリヤ・サーチナと結婚しました。彼女もピアノを学んだ人で、二人の間にはイリーナとタチヤーナという娘が生まれます。3,4
仕事の面では、1904年からモスクワのボリショイ劇場で指揮者を務め、自作のオペラにも取り組みました。けれども劇場では、稽古や公演に継続して時間を割く必要があります。作曲へ集中する環境を求め、1906年には家族とドレスデンへ移りました。
そこで取り組んだ大作が、交響曲第2番です。第1番の初演失敗を経験した作曲家が、もう一度、交響曲に向き合ったのでした。1908年の初演は自身が指揮し、成功を収めます。3,7

イワノフカからアメリカへ
ロシアで創作を支えた場所が、妻の実家にゆかりのあるイワノフカの屋敷でした。都市での演奏や指揮の仕事を離れ、落ち着いて作曲できる拠点です。
1909年には、ここで《ピアノ協奏曲第3番》を書きました。同年に予定されていた初めてのアメリカ演奏旅行に向けた新作で、ニューヨークでは自ら独奏を担当しています。3,8
第3番は、演奏の難しさでも知られています。ただし、曲の入り口は驚くほど素朴です。ピアノが両手で同じ旋律を弾き、その歌がしだいに姿を変えながら巨大な音楽へ広がっていきます。速い指の動きだけでなく、冒頭の旋律がどのように帰ってくるかを追うと、長い作品の流れをつかみやすくなります。8
初めてのアメリカ滞在を終えると、ラフマニノフはロシアへ戻り、作曲と演奏を続けました。

ピアノの外にも広がる、声の音楽
1913年には、独唱・合唱・オーケストラによる《鐘》を作曲しました。エドガー・アラン・ポーの詩をロシア語にしたテキストを用い、異なる鐘の響きを人生の諸場面につないでいます。ピアニストとしての名声と並んで、声や大きな編成を扱う作曲家の仕事も充実していました。4
1915年の《徹夜禱》では、さらに異なる響きを聴けます。楽器を伴わず、人の声だけで演奏する合唱曲です。ロシア正教会の聖歌を取り入れ、低い声から高い声までを重ねて、深く広がる音楽を作りました。
全15曲のうち、第6曲〈生神童貞女や、慶べよ〉は、穏やかな合唱が大きく膨らみ、再び静まっていく一曲です。人の声だけで生まれる響きの変化を楽しめます。9
独唱曲にも、《ヴォカリーズ》という親しみやすい作品があります。歌詞を使わず、母音で旋律を歌う歌曲です。器楽の編曲でも広く演奏されますが、もとの歌曲では、一つの声が長い旋律を歌い継ぐ様子を聴くことができます。17
4.革命で祖国を離れ、ピアニストとして生きる
家族四人の出国
1917年、ロシアでは革命が起こりました。ラフマニノフはストックホルムでの演奏の招きを受け、年末、妻と二人の娘を連れて出国します。北欧で過ごしたのち、1918年11月にはアメリカへ渡りました。祖国へ戻る機会は、その後訪れませんでした。3
44歳でロシアを離れた彼には、すでに国際的な名前がありました。それでも、家族と暮らす基盤は国外で築き直さなければなりません。中心に据えたのが、演奏会のピアニストとしての仕事です。
自作に加えて他の作曲家の曲も準備し、各地を巡り、録音にも取り組みました。作曲・指揮・演奏を並行していた生活から、独奏者としての出演予定に大きく左右される生活へ移っていきます。
成功した演奏家に、足りなくなったもの
アメリカの聴衆はラフマニノフを歓迎しました。ニューヨーク・フィルの資料には、高額な出演料の交渉や、彼の出演時に客席が埋まったことが記されています。自作を自分で演奏できる独奏者として、特別な存在になっていたのです。10
1922年9月9日、旧友の音楽家ウラジーミル・ヴィルシャウに宛てた手紙では、「この間、一行も作曲していません」と記しています。演奏会を多く開き、経済的には十分に安定しているとも伝えました。さらに、練習を重ねるほど自分の欠点が見えることや、作曲も演奏も、もっとよくできるはずだという思いを述べています。18
演奏会の予定をこなすだけでなく、演奏そのものにも高い水準を求め、練習を続けていました。

故国へ送った食料と、返ってきた音楽
同じ1922年の手紙には、別の仕事も書かれています。困窮するモスクワ音楽院の教員の名前と住所を知らせてほしい、一人ずつ直接援助を届けたい、とヴィルシャウに頼んでいたのです。18
ラフマニノフは、飢えや生活難に苦しむ故国の音楽家たちへ、食料や資金を送りました。その支援に感謝した教員ら19人は、1922年末、彼に謝意を伝えるカンタータを贈っています。ヴィルシャウの言葉に作曲家グリエールが音楽を付けた、合唱とピアノのための曲でした。19
演奏活動の間に完成させた第4協奏曲
1926年、ラフマニノフは《ピアノ協奏曲第4番》を完成させました。出国以来、長く遠ざかっていた大きな新作です。翌年の初演では十分な評価を得られず、その後も改訂を重ねることになります。4
5.湖畔の住まいで、再び新しい音楽を書く
セナールにあった、家族との時間
1930年代、ラフマニノフはスイスのルツェルン湖畔に夏の住まいを設けました。名前は「セナール」。セルゲイとナタリヤ、そしてラフマニノフという姓に由来します。
湖に面した敷地には庭や船小屋もありました。家族と過ごし、作曲に集中できる場所です。演奏旅行を続けながら、夏にはここへ戻る暮らしができていきます。11,12
ここで生まれたのが、1934年の《パガニーニの主題による狂詩曲》でした。ピアノとオーケストラが、パガニーニのヴァイオリン曲の旋律を24通りに変化させる作品です。

有名な第18変奏は、どこから来たのか
なかでも、ゆったりと歌う第18変奏は、単独でも親しまれるほど有名です。
この旋律は、もとの主題の音の進む向きを反転させる工夫から生まれています。上へ進んでいたところを下へ、下へ進んでいたところを上へと置き換え、調やリズムも整えることで、違う表情の歌に変えたのです。
ピアノが静かに旋律を示し、弦楽器が加わると大きな歌へ育ちます。13
新作への反応は、いつも歓迎一色ではなかった
セナールでは交響曲第3番も作曲し、1936年に完成させました。初演を担当したのは、レオポルド・ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団です。
この作品への反応は一様ではありませんでした。濃厚で歌うような音楽を期待した聴衆には、以前より響きが簡潔で、近代的に聞こえます。その一方で、同時代の新しい作曲家と比べ、依然として古い作風だと考える批評家もいました。
ラフマニノフは1938年に改訂し、翌年には同じ楽団を自ら指揮して録音しました。自分の新作を残す場としても、フィラデルフィア管弦楽団は大切な存在になっていました。14
6.最後の大作に戻ってきた、若き日の旋律
《交響的舞曲》に重なる過去の作品
1939年、ラフマニノフはヨーロッパを離れ、再びアメリカで暮らします。1940年、ロングアイランドで書いたのが、最後の大作《交響的舞曲》です。
第1楽章では、鋭いリズムの音楽の途中にアルト・サクソフォーンの歌が現れます。そして終盤には、若い日に書いた交響曲第1番の旋律が引用されています。初演の失敗後、生前に再演されることのなかった交響曲の音楽を、ラフマニノフは新しい作品の中へ戻したのでした。15
終楽章では、死者のためのミサで歌われる聖歌〈怒りの日〉と、自作の《徹夜禱》に用いた聖歌の旋律が現れます。どちらの旋律が前へ出てくるか、激しいリズムの中で響きがどう変わるかを追ってみてください。若き日の交響曲から合唱曲まで、異なる時期に書いた音楽が、この管弦楽曲の中に重なっています。15
手紙には、次の演奏への期待がある
1940年8月21日、ラフマニノフは指揮者ユージン・オーマンディに、新しい交響的作品を書き上げたことを知らせました。そして、最初にあなたとあなたのオーケストラへ渡したい、という意向を伝えています。
作品はオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団に献呈され、1941年1月3日、同じ組み合わせで初演されました。16
その年の11月1日には、ニューヨークのカーネギー・ホールでリサイタルを開き、収益をロシアの戦争救援に寄付しています。故国を離れてから20年以上が過ぎても、演奏の仕事を通して支援を届けていました。20
最後の演奏会と死
体調が悪化した晩年も、演奏活動は続きます。1943年2月17日、テネシー州ノックスヴィルで行ったリサイタルが最後の演奏会となりました。
同年3月28日、ビヴァリーヒルズで死去。70歳の誕生日を迎える数日前のことです。3
没後には、交響曲第1番の楽譜が、残されていたオーケストラのパート譜から復元されました。1945年、モスクワで再演され、今度は成功を収めます。若い日の失敗作として長く演奏されなかった音楽も、再び聴衆のもとへ戻ったのでした。3,21
演奏家としての仕事は録音に残っています。自作の協奏曲だけでなく、他の作曲家の曲も聴けるため、楽譜に書かれた音楽と、彼自身が音にした演奏の両方からラフマニノフを知ることができます。
生涯を知ったあとに聴きたい5曲
1.《前奏曲 嬰ハ短調》――若き日の名声を生んだ響き
冒頭の重い音型と、中間部で音が細かく動き始める変化を聴いてみてください。終盤には冒頭の響きがいっそう厚く戻ってきます。短い曲の中で、同じ素材がどれほど違う圧力を持つかが伝わります。1,4
2.《ピアノ協奏曲第2番》――終楽章で歌が大きくなる瞬間
冒頭だけでなく、第3楽章にも耳を向けてみましょう。勢いのある音楽の間に現れた旋律が、終盤では大きな響きで帰ってきます。最初の登場と最後の登場を聴き比べると、作品全体の到達点を感じやすくなります。1
3.《ピアノ協奏曲第3番》――素朴な歌から生まれる大きな音楽
冒頭の旋律を覚えたら、第1楽章の終わり近く、ピアノが一人で演奏する長い独奏にも耳を向けてみてください。最初の控えめな歌が、ここまで大きな音楽へ育ったことを実感できる場面です。8
4.《ヴォカリーズ》――同じ旋律を、声と楽器で聴き比べる
まずは声とピアノの原曲を聴き、そのあとに弦楽器やオーケストラによる編曲へ進んでみてください。同じ旋律でも、息の切れ目や音色によって表情が変わります。歌詞のない歌だからこそ、声そのものの響きにも耳を向けやすい作品です。17
5.《パガニーニの主題による狂詩曲》――第18変奏の前後まで
有名な旋律に親しんだら、その直前と直後も続けて聴いてみてください。第18変奏のゆったりした歌が、全曲の中でどれほど大きな変化を作っているかがわかります。最後には、華やかな流れを小さな身振りで閉じるような結末も待っています。13
もう一度聴くなら――協奏曲から、最後の管弦楽曲へ
ラフマニノフは、治療や周囲の支援を受けて創作へ戻り、祖国を離れたあとは演奏で生活を築きました。その収入を故国の音楽家へ送り、休暇には新作を書く時間を確保しています。暮らしが変わるたびに仕事の配分を変えながら、作曲を続けた人物でした。
もう一度聴くなら、まずは《ピアノ協奏曲第2番》を。そして、その先に《交響的舞曲》を選んでみてください。前者からは大きな旋律が育つ力を、後者からは過去の作品の響きを新しい音楽へ取り込む、晩年の仕事を聴くことができます。
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《ピアノ協奏曲第2番》のIMSLP作品ページ
《パガニーニの主題による狂詩曲》のIMSLP作品ページ
参考資料
[1] Boston Symphony Orchestra, Marc Mandel, Piano Concerto No. 2。成立、初演、ダーリへの献呈、音楽の特徴。
[2] Rachmaninoff Network, Nikolai Dahl’s cure – Good luck or good practicing?。治療と創作停滞期の活動。
[3] Boosey & Hawkes, Sergei Rachmaninoff: Biography。教育、家族、移住、演奏活動、最晩年。
[4] Boosey & Hawkes, Geoffrey Norris, Sergei Rachmaninoff Timeline。作品と生涯の年代。
[5] Tchaikovsky Research, Sergei Rachmaninoff。チャイコフスキーとの交流、書簡と回想の紹介。
[6] 上記2、および1。治療の経過と周囲の支援。
[7] Los Angeles Philharmonic, Herbert Glass, Symphony No. 2 in E minor, Op. 27。ドレスデンでの創作と音楽の構成。
[8] Boston Symphony Orchestra, Piano Concerto No. 3。1909年の作曲・初演。音楽の説明は2022年8月27日公演プログラムも参照。
[9] Hyperion / LSO Live, All-Night Vigil ‘Vespers’, Op. 37。聖歌の使用、合唱書法、成立。
[10] New York Philharmonic Archives, Rachmaninoff and the New York Philharmonic。出演料、聴衆、楽団との関係。
[11] Sergei Rachmaninoff Foundation, History。セナールの名称、建物と敷地。
[12] Rachmaninoff Network, Unseen material reveals new side to Rachmaninoff。セナールに残された私生活の資料。
[13] Boston Symphony Orchestra, Rhapsody on a Theme of Paganini、およびLos Angeles Philharmonic, 同作品解説。第18変奏と全曲構成。
[14] Boston Symphony Orchestra, Symphony No. 3。成立、初演、受容、録音。
[15] Los Angeles Philharmonic, Herbert Glass, Symphonic Dances, Op. 45。過去の作品からの引用、編成、音楽の特徴。
[16] Boston Symphony Orchestra, Symphonic Dances。1940年8月21日付オーマンディ宛書簡の引用、献呈と初演。
[17] Los Angeles Philharmonic, Vocalise, Op. 34, No. 14。歌詞のない歌曲と編曲。
[18] ラフマニノフ、1922年9月9日付ヴィルシャウ宛書簡(ロシア語公開本文)。創作の停滞、演奏の自己評価、経済状況、食料援助。引用は本記事による日本語訳。
[19] ロシア国立音楽博物館、ラフマニノフへの感謝のカンタータ。1922年の援助と教員ら19人の返礼。
[20] Rachmaninoff Performance Diary, November 1 1941。当日の演奏会と寄付。ソフィヤ・サーチナ資料の所在も記載。
[21] Sofia Philharmonic, Symphony No. 1。1945年の再演。復元の経緯は上記3と併読。

